★最新情報★(最新記事はこれより以下にあります)

「mpヘッドライン」にお越し頂き、誠に有り難うございます。
掲載している記事が少しでも皆様のお役に立てれば幸いです。

さて、mai placeの最新お役立ち情報は以下の通りです。
-------------------------------------------------------------------------------------------
学生と若手社会人のための就職・ビジネススクール
mai place(マイ・プレイス)

http://www.mai-place-japan.com/
-------------------------------------------------------------------------------------------


mai place

| | トラックバック (0)

2012年1月17日 (火)

【内定への一言/歴史・古典】59. 「昔話は最高の教科書だ」

59. 「昔話は最高の教科書だ」


日本人なら誰もが知る「桃太郎」。今日のFUNゼミ「起業塾」でも登場しましたね。
桃から生まれた桃太郎が、おじいさん、おばあさんに育てられて立派な青年となり、犬、猿、キジを引き連れて鬼ヶ島に乗り込んで鬼を退治し、村は平和になりました…。

という昔話です。

実に単純な話ですが、起業してから僕はたびたび、この桃太郎の話が持つ普遍的なメッセージを何度も、何通りも味わい、リーダーシップの教科書として位置付けてきました。

彦一さん、吉四六さん、わらしべ長者、打出の小槌…など、FUNの部員の方は、FUNの会計講座や金融講座、スピーチ講座などで、何度も昔話を例え話として聞いてきたことでしょう。

昔話は、優れた知恵を簡素にまとめた偉大な遺産なので、よく紹介しているのです。

桃太郎は、ビジネスに当てはめるなら、リーダーシップの優れた教材です。

「きびだんご」の用い方は業務提携の参考になるし、僕が特に好きなのは、桃太郎は何ら長所を持っていないところです。

桃太郎には、ただ「鬼ヶ島に行って鬼を退治し、村に平和をもたらす」というビジョンしかありません。資本金も、能力も、何もないのです。

しかし、桃太郎には、「村人を苦しめる鬼を退治すれば、きっと村は平和になり、みんなが安心して暮らせるようになる」という信念がありました。

桃太郎はこのプランを、育ててくれた恩人であるおじいさんとおばあさんに表明します。

すると、「それなら、これを使いなさい」と、腰にぶらさげるほどたくさんの「きびだんご」を作ってくれました。

きびだんごは、今で言うところの「資本金」です。

桃太郎がここで「おいしそうだなぁ、ラッキー!」と思って食べたらただのグルメ物語ですが、桃太郎の賢明な点は、このきびだんごが最も価値を発揮する利用方法を考えていたことです。

つまり、「自分で食べて自己満足」という浪費ではなく、「それを求める人に与え、力を借りる」という、投資を考えていたのです。

「鬼ヶ島に、鬼を退治しに行く」。

遠く、誰も知らず、皆が恐れるあの鬼ヶ島で、村をおびやかす鬼を退治するための戦いを挑む…。

壮大な事業です。

経験豊富なおじいさんとおばあさんは、その事業が困難で長期にわたるのを知っていたからこそ、ベンチャーキャピタルとして、最も役立つ経営資源を出資したのです。

鬼ヶ島は孤島で、鬼たちが連日見張りをしています。そこにのこのこと出向くようでは、退治する前から返り討ちに遭いかねません。

そこで、桃太郎は、空高く飛ぶことができ、遠くを見渡して正確な地理情報を収集することのできる仲間、つまり「キジ」と業務提携を行うことが必要だと考えました。

また、鬼ヶ島までの道中は時に暗く危険で、何が待ち受けているか分かりません。万が一鬼の待ち伏せに遭ったら、目標を達成する前に敗退してしまいかねません。

そこで、桃太郎は、自分の数倍良い鼻を持ち、遠くの物体の状況を正確に感知する能力を持った「犬」とも業務提携を行うことにしました。

そして、道中あれこれと作業を行い、道具を作ったり片付けたりする「キャンプ設営係」として、自分の数倍素早く動くことができ、抜群に器用な手先を持つ「猿」も提携パートナーに加えました。

飛ぶことも、遠くのにおいをかぎ分けることも、小道具を作ることもできない桃太郎でしたが、鬼ヶ島で鬼退治を行うためにはどういう能力が必要で、それは誰が持っているかは、ちゃんと知っていました。

そのため、桃太郎は、大切な資本金であるきびだんごを自分で食べてしまうことはせず、ぐっとこらえて節約し、自らが選んだ大切なパートナーである犬、猿、キジとの業務提携の報奨金として、「先に与えた」のでした。

各自が持つ長所を正確に見極め、仲間たちの能力を効果的に組み合わせることで、桃太郎は自分にない力を手に入れ、充実した戦力で鬼退治というベンチャービジネスに臨むことができたのです。

もし、桃太郎が「なぜ僕は鼻が利かないんだ!くそ~っ、犬になんて頼めるか!よし、じゃあ、自分で鼻を鍛えてやる!」などと考えたら、鼻を鍛えるのに一年近くかかり、その間に鬼はどんどん村に攻めてきたかもしれません。

桃太郎が「オールマイティ」に憧れ、プライドに邪魔されて、「この俺様が空を飛べないなんて許せない!」などと考え、空を飛ぶ練習を始めれば、こちらは一年どころか、五年くらいかかっていたことでしょう。

そうなれば、おじいさんはとても「山で芝刈り」をやってる場合じゃなくなるし、おばあさんも「川で洗濯」をやってる場合じゃありません。

全ての長所を自分で保有しようと考え、自分より優れた人の存在や能力を認めずに一人で何でもやろうとする人こそ、本当の「怠け者」であることを、桃太郎はよく知っていました。

仲間がいるのに頼ろうとせず、人に頼むことを屈辱と考えて自分で全てをやろうとするのは、「サッカーで相手ディフェンダー5人に囲まれても、パスを出そうとしない選手」のようなものだと考えていました。

あるいは、野球の試合で、たった一人で全部の守備位置を守ろうとするようなものだと考えていました。

桃太郎は、「四番バッターばかり集めたチームは弱体化する」、「スター選手ばかり集めたサッカーチームは衰退する」ということや、「長所ばかりの人間は慢心と多忙で自滅する」、「人に出番を譲れない人こそ最も無能である」という事実をよく理解していた、賢明な実業家でもありました。

「万能の人間は、無能と紙一重である」ことを、桃太郎はよく知っていました。

桃太郎は、自分の仕事が「明確なビジョンを描き、部下の能力を正しく配置してやる気を引き出し、貢献を素直に認めていくこと」だとわきまえていました。

桃太郎は、「鬼退治」という問題解決が自己顕示欲から生まれたプランではなく、村の人々が喜ぶ「社会貢献」の側面を持つプランだと理解していました。

ならば、大切なのは「時間と労力を節約し、素早く、確実に目標を達成すること」です。

賢明な桃太郎は決してこの初心を忘れず、自分に足りない要素を素直に自覚して、それを補完できる能力を持った仲間を集めてチームを組織し、きびだんごを用いてM&Aを行ったのでした。

桃太郎は、与えられた期限と自分が使える資源を正確に認識していたからこそ、自分の短所によって他人の長所を呼び込み、自分が持てる以上の実力を保有する組織を作ることができたのです。

出資された「きびだんご」は犬、猿、キジという有能なパートナーに転化し、スタッフの能力は当初の期待通り時間を節約し、桃太郎は自分がやるべきことに集中することで、適材適所の人員配置が完成しました。

この組織力の前に、腕力だけが頼みの鬼は敗れ、ついに、村に平和が訪れたのでした。

「桃太郎」は幼稚園児でも理解できる単純な話ですが、こう考えてくると、なんと普遍的で本質的な経営手法、リーダーシップ、投資方法を教えてくれることでしょうか。

わが国には、このようにシンプルで誰もが理解できる昔話が無数にあり、そのいずれも、人間の本質をシンボル化した単純な物語の構成を採っており、その教えるところは偉大なメッセージを含んでいます。

きっと、わが国の先人たちは、人の世を生き抜く上で本当に大切なことを子供の頃から覚えられるように、「昔話」という形で大切に守り伝えてきてくれたのでしょう。なんと有り難いことでしょうか。

ということで、僕はいつか、「ビジネス昔話」のような本を書いてみたいと、最近はひそかに考えています。

もしくは、FUNゼミでいつか「昔話塾」でも開いて、代表的な昔話が持つ威力を味わう勉強をしてもいいな、と思っています。

昔話を「文学」と見なす人はいないかもしれませんが、文学の力は普通の人が考える以上にずっとずっと大きなものです。

「文学は社会で役に立たない」とか言う人もいますが、文学、つまり思想や哲学を必要とせず、場当たり的対処で生活を送り、物語にもならないような人生を送る人が役に立たないだけのことです。

それを「文学は役に立たない」などというのは見当違いで、文学は「王者の学問」であるがゆえに、器の小さな人間は学ばなくても生きていけます。

文学作品のような偉大で価値ある人生を送りたいと願う人には、文学はありとあらゆる大切なメッセージを届けてくれる、人生最高の同伴者の一人になることでしょう。

文学に感動を求めず、文学から得た感動を人生に生かさずに生きれば、その人生もまた、何の文学にもならないような、味気ない、単なる時間の経過でしかないでしょう。

目先の問題に対処するノウハウ本や実務書も結構ですが、時には壮大な視野と長期的な視点を鍛え、深い人間心理を教えてくれる文学作品を読みふけるのもいいでしょう。

僕は高校時代にドストエフスキー、ゲーテ、ジッドなどにはまり、夢中で耽読していましたが、その時は正確に理解できなかったことがある日突然発酵し、貴重な気付きをもたらしてくれる経験は何度もありました。

最近は、もっぱら昔話によって、25年近く埋め込まれていた「アイデアの時限爆弾」が破裂するような感覚を味わっています。

皆さんも、読み方次第で何通りもの解釈ができ、読むたびに発見がある名作を読んでみてはいかがでしょうか。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

学生と若手社会人のための就職・ビジネススクール
mai place(マイ・プレイス)
http://maiplacehp.web.fc2.com/

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

『内定への一言』はmai place講師の小島尚貴氏が、全国96大学1100人以上の就活生に向けて、04年春から07年まで配信し続けたメルマガです。毎号冒頭に今日の一言を紹介し、時事問題や学生事情も取り上げ、ユニークかつ本質的な視点で解説します。全国の学生から毎年支持されている小島氏の就職活動・入社対策の教材はこちら。
http://maiplacehp.web.fc2.com/tuhan/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (1)

【内定への一言/歴史・古典】58.「古典とは、時間がたっても古くならない作品だ」

58.「古典とは、時間がたっても古くならない作品だ」


ここ数日、大月さんの「mai place」の新サービスのお手伝いの一環で、職業観に関する古い本を優先的に読んでいます。

本は以下のようなテーマが中心です。

◆金銭を卑しむ思想の由来は何か

◆江戸時代の士農工商の価値観は明治時代にどう引き継がれたか

◆昭和5~20年の社会主義の怒涛のような流入の背景は何だったのか

◆戦後の社会主義の普及は学校教育や職業教育にどんな影響を与えたか

◆現代の学校教育や大学教育に見られる社会主義的価値観と昭和初期の青年の価値観の共通点は何か

◆職業観形成や是正に尽力した先人は何を問題と見、どんな解決策を設定したのか

◆各時代の教育行政、学校教育の代表的人物は、問題をどう分析し、何を原因と規定したか

そんなことを考えながら読んだのは…

■『共産主義と人間尊重』(小泉信三/文藝春秋新社※絶版)

■『真理と平和を求めて』(田中耕太郎/講談社※絶版)

■『石田梅岩と都鄙問答』(石川謙/岩波新書※絶版)

■『人間の建設』(岡潔・小林秀雄/新潮社※絶版)

■『兄小林秀雄との対話』(高見沢潤子/講談社現代新書※絶版)

■『風蘭』(岡潔/講談社現代新書※絶版)

■『論語と算盤』(渋沢栄一/国書刊行会)

などです。

ほとんど絶版で書店では入手不可能ですが、もしかしたら見つかることもあるかもしれないし、欲しい人もいるでしょうから、以下、少し詳しく書いておきますね。興味があったら探してみて下さい。

『共産主義と人間尊重』の小泉信三博士は、本メルマガの長年の読者の方ならご存知の、戦前~戦後の慶応大学を率いた塾長です。

経済学者としても立派な業績を残し、天皇陛下の教育係を務められ、美智子皇后との縁談をセッティングされた、日本が誇る教育者ですよね。

戦前、戦後を通じて外国人にも物怖じせず、堂々と意見を主張し、相手から深い尊敬と信頼を集めた姿は白洲次郎にも通じるところがあり、昨今の軟弱、軽薄な国際交流などとは雲泥の差です。

『真理と平和を求めて』の田中耕太郎博士は、終戦直後の文部大臣で、反骨の法律家としても有名であり、長年最高裁判所長官を務めた学者です。

田中博士は、西南大の隣にある修猶館高校の出身で、東大法科を首席で卒業し、明晰な頭脳とカトリック信者としての温かい感性で終始共産主義を批判したことでも知られています。

わが国における商法の第一人者で、人間愛と経済的合理性は矛盾しないことを説き、本書では一貫して日本の学者、官僚が国際的に大変勉強不足であることを憂え、叱咤しています。

『石田梅岩と都鄙問答』の石川謙博士は、戦後日本が陥った精神的貧困を救うため、日本の商業思想を形成した江戸時代の古典『都鄙問答』を終生研究したことで知られています。

『都鄙問答』については、今さら繰り返すまでもないでしょう。

また、文芸分野では、『人間の建設』の岡潔博士と文芸評論家の小林秀雄さんは、本メルマガの読者の方であれば既にご存知でしょう。

自然や芸術を優しい愛情で見つめ、人間性をどこまでも肯定、尊重した両氏の作品は、没後も多くの愛読者を持っています。

『兄小林秀雄との対話』は実の妹である高見沢潤子さんが小林秀雄さんの生き方、考え方を分かりやすくまとめた本で、ページを開くたびに優しさと感動、素朴な発見が満ち溢れていて、本書は僕の学生時代の愛読書でした。

このような名著を昭和50年生まれの僕が読んでいる、いや、持っているというだけで時代錯誤と言われそうですが、実はこれらの本は、読めば読むほど新しく、いつも新たな気付きを与えられる名作ばかりです。

どの本でも一貫して主張していることは…

・戦後、日本人の知性は驚くほど劣化し、下がり続けている

・日本人ほど社会主義になじみやすく、不勉強でお上に靡きやすい国民は稀である

・戦後の青少年は学ぶ喜びを知らず、勉強、学問の何たるかを教えられずに社会に出され、気の毒だ

・われわれ日本人はもっと堂々と国家戦略を議論し、歴史や古典と向き合って先人の英知に学ぶべきである

といったことです。

皆、当時の時代の風潮や流行に流されず、立場や地位を気にせず堂々たる論陣を張った気骨あるサムライで、僕はこの方々のような生き方が本当にかっこいいと昔から憧れ、尊敬しています。

そのため、このような方々はどんな勉強をしていたのだろうと調べるようにしているわけですが、そのたびにいつも確認できる事実が、「若い頃に古典を徹底して読んだ」という経験です。

FUNでも、「私も学生時代に古典を読みたい!」と熱望する学生さんが8人ほどおられたので、先週から「古典の会」を開き、毎回3時間、熱く深く語り合っていますが、皆、「深すぎる!」、「人生が変わった!」と一瞬で「本当の自分」を掴めて喜んでいるようです。

古典とは何か。

先週読んだ『古典の讀み方』(岩波文庫/非売品)から、小泉信三さんの古典精読体験を振り返りながら考えてみます。

本書は岩波文庫創刊25周年記念の小冊子で、書店では販売されておらず、したがって入手は不可能なのですが、戦後の各界を代表する学者、作家が「私と古典」といったテーマで古典に接する姿勢を書いた本です。

小泉博士の本は明快で例え話が豊富なのは、読まれた方は皆感じたことでしょうが、博士は本書の中で、こういう趣旨のことを述べています。

「紙に文字が印刷しているものが皆本だとすれば、時刻表の類も本である。どの駅を何時に出れば、どの駅に何時に着くか、まさに右から左に役立つという点では、その効用は疑うべくもない。しかし、このようなものが読書の効用かと言われれば、誰もそうは思わない。また、養豚養鶏の方法を述べた実務書も、読んで実施すればたちどころに利益を上げられるという点では、申し分のない効用を持っている。読んで役立つという点では疑いもなく読書の利益を享受できるわけではあるが、この
ようなものも読書の効用ではない。

目的の利益が手段によって制約されるような限定性のあるものは、やはり古典とは呼べない。「すぐ役立つ人材は、すぐに役立たなくなる人材だ」と言うように、「すぐ役立つ本は、すぐ役立たなくなる本だ」という言葉は至言である。

しからば古典とは何か。古典とは、後代の人々がそこから発想を行い、思考の出発点として接し、しかして後代の思想を支配する本である。時刻表、養豚養鶏の実務書のようにすぐに役立つかと聞かれれば、古典がこのような意味では役立たないことは明白であるが、古典を求めないような人生も世の中に役立たないであろう」

だいたいこういった趣旨の内容で、読んだ学生さんも一様に自分の読書履歴、読書経験を振り返って、様々な感慨を抱いたようでした。

「試験があるから、テキストを読む」。

そういう場合のテキストは、「試験のため」という目的が限られており、試験に限っては役立ちますが、終われば何の役にも立ちません。

もちろん、人生は知らないことばかりに出くわすので、場合によってはこれらの実務書を求めることも大切ですが、しかし、実務書ばかり読んでも、人間的成長にはつながらないということです。

それは、読書習慣や学習姿勢、記憶方法の訓練には役立つでしょうが、人生の大方針を決定したり、実務知識をいかに役立てるかという人間的な思いやりを得たりすることには、何ら寄与しないということです。

つまり、「実務書を読んでは捨て、読み終えては忘れる」というような行為は、当人はそれを「勉強」と詐称するかもしれませんが、実は「勉強の真似事」か「勉強ごっこ」でしかないわけです。

現在は試験中で、読者の皆さんの中にも、前期で学んだ内容を復習し、それぞれの熱意を持って試験に取り組んでいる方がおられると思います。

もし、学習内容を振り返って、人格的な成長や視野の拡大が得られていないのであれば、残念ですが、それは「知識の使い捨て」、つまり「学費の廃棄処分」だったというほかありません。

要するに、勉強など、1分もやらなかった、ということです。そういう学生が読んできた数千円の教科書は、「時刻表」か「養豚法」だったわけです。

社会に出て、「大学の勉強なんて、役に立たないよ」としたり顔で話す社会人もいますが、それは本人がどういう人間になりたいか、どういう人生を過ごしたいかを考えることなく、場当たり的に試験のためだけに生きてきたなら、当然のことでしょう。

「勉強が役に立たない」というのは、知的矛盾もいいところで、役に立たないのはその人自身です。「これに役立てよう」という目標のないところで得られる学習行為からは、何ら実効性のある知識や見識は得られません。

現代は「理屈は通用しない」ともっともらしいことを言う人も多い時代ですが、理屈は通用します。あくまで基本にこだわれば、基本は必ず成長を生みます。

ただ、それを忠実に継続する人が少ないだけの話ではないでしょうか。それを「理屈は通用しない時代だ」と言うのはごまかしにほかなりません。

要するに、学ぶ前から「何に役立つか?」、「これに役立てたい」と考えすぎるのは、場合によっては効率化を図る前提にもなりますが、そういう姿勢を人生態度として適用すれば、いつも最新知識にキャッチアップするのが精一杯で、成長できない人間になってしまうということです。

どの知識も、得るとたちどころに陳腐化し、すぐに使えなくなってしまいます。だから、またせっせと新しい知識を習得しないといけない。いわば、「現実との合作」に必死で、何かを創造することなど不可能です。

これを要約すれば、「最新知識とは、最古の知識である」ということができるでしょう。「古い」とは、昔生まれたことではなく、現実への適応性と耐用性を欠くことを言うからです。

ここから、「古典とは、どのような本であるか」を逆説的に定義することができます。

それはつまり、「時間がたっても古くならない作品」だということです。生まれた時期は数百年、数千年も昔かもしれませんが、いつ読んでもそのたびに新たな解釈ができ、人格的な成長や知的な発見をもたらしてくれ、読むほどに新しくなる本、それが古典です。

「古」という字がついているだけに、それだけで古い本だと決め付けて読まない人も多くいますが、実は、最新トレンドなどを追い求めている人たちこそ古臭くて時代遅れの人々なのであって、古典を読む人こそ、真に新しいものを創造できるクリエイティブな人だということです。

人格的な深みを増し、透徹した洞察力を磨き、人生で何か新しく価値あるものを作りたいと思ったら、そういう時こそ古典を読んでみるのはいかがでしょうか。

時間がたっても古くならない本を読んだ人だけが、時間がたっても古くならない人になることができます。そうやって自分を日々アップデートできる人こそ、真に若い人だということができるでしょう。

「就職に役立つだろうか?」

そのような動機こそ、人生に最も役立たない投機的、衝動的、感情的な動機です。

そういう狭い視野で生きるから、どう生きるべきか、どう働くべきかを考えることができず、自己分析や業界研究といった細々したことで立ち回る器の小さい人間に成り下がってしまうのです。

学生時代は、茫洋たる未確定の未来に思いを馳せ、遠く将来を描き、雄大な自己成長を図るための時間でしょう。そうして、喜ばせたい人、解決したい問題を描き、そこから逆算して仕事を決めればいいのです。

仕事選びのための学生時代は、養豚の本と同じく、何の仕事にも役立たないと知るのが賢明な学生です。

賢く有能で、可能性溢れる学生の皆さん、ぜひ夏は、人生を支える一冊を読みましょう。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

学生と若手社会人のための就職・ビジネススクール
mai place(マイ・プレイス)
http://maiplacehp.web.fc2.com/

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

『内定への一言』はmai place講師の小島尚貴氏が、全国96大学1100人以上の就活生に向けて、04年春から07年まで配信し続けたメルマガです。毎号冒頭に今日の一言を紹介し、時事問題や学生事情も取り上げ、ユニークかつ本質的な視点で解説します。全国の学生から毎年支持されている小島氏の就職活動・入社対策の教材はこちら。
http://maiplacehp.web.fc2.com/tuhan/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【内定への一言/歴史・古典】57.「惜む心を止め、善に化するの外あらんや」(石田梅岩)

57.「惜む心を止め、善に化するの外あらんや」(石田梅岩)


昨日は特に、朝から僕の大好きな「石門心学」の古典である『都鄙問答(とひもんどう)』(石田梅岩)を読んで、これに対する学生さんの感想が嬉しかったので、今日はこれについて書きます。

石田梅岩は京都の商業思想家で、彼の生み出した「心学」は江戸の経済発展や明治維新に絶大な影響を与えたのみならず、現在では東証一部上場企業となっている多くの会社の創業者が、等しく学んだ「聖典」でもあります。

これが体系的にまとめられた「都鄙問答」の初版は、昭和10年に岩波文庫(足立栗園校訂)から出され、現在では絶版となっていますが、なぜかこれも、我が家にあります。

昨日読んだのは、この「都鄙問答」の現代的解説書である『清廉の経営』(由井常彦/日本経済新聞社)の前半部分である「商人に学問は必要か」からの数章です。

僕はkumamotoさん、下関市立大4年のF本君、西南3年のA坂さんと同じグループでしたが、学生さんが「なぜこんなに優れた本を学校でやらないのか」と感動の声を聞かせてくれることに、二重に感動してしまいました。

「都鄙問答」には現代人に心を清め、問題の本質を教えてくれる珠玉の言葉が数多く散りばめられていますから、今日はその一部をご紹介してみます。

◆「教の道は人倫を明らかにするのみ」

…学問とは人の道を明らかにするものである。学んで人に驕り、優越感に走るようなものは、いくら学ぼうが「学問」などではない。

という意味です。これは、中江藤樹の「それ学は人に下るを学ぶなり」(学問とは人にへりくだることを学ぶものなのだ)と同じで、深い哲学を感じさせてくれますよね。

◆「商人皆農工とならば、万民の難儀とならん」

…商人が皆農民、工業者となれば、国民全員が困るだろう。

という意味です。当時も商人を軽蔑・嫉妬する雰囲気は強かったものの、梅岩は商社や商人の効用を積極的に認めて理論化し、「商人なんていなくなればいいんだ」という一種の「江戸社会主義」的な思想に合理的に反論しています。

◆「一升の水に油一滴入る時は、其の一升の水一面に油の如くに見ゆ。此を以て此の水用に立たず」

…一升の水に油を一滴垂らしただけで、その水全体は使い物にならなくなる。

という意味です。どれだけ良いもの、立派なことを持っていても、ちょっとした目先の利益に走ろうとする
だけで、全体を損なってしまうことがある。これは、数億円の金のために会社全体、業界全体の信頼を損ねて破綻したライブドア事件などにも通じる指摘ですね。

◆「倹約と云ふことは世俗に説くとは異なり、我が為に物ごとをしはくするにはあらず。世界の為に
三つ入る物を二つにてすむやうにするを倹約と云ふ」

…倹約とは、世の中で言う「吝嗇(りんしょく=けち)」とは違う。世の中で何かをやる時に三つ必要なものを、二つで済ませることが倹約だ。

という意味です。「けち」が必要量さえ削って自分だけが得をし
ようとする点で、本質的には「欲」の現象であるところ、「倹約」とは3つの資源を2つで済むように工夫する創造と節約の営みだ、と定義しているのはなんという卓見でしょうか。

「けち」と「倹約」の違いも知らず、節約や貯金が下手な現代人は、味わうべきものがあります。

◆「惜む心を止め、善に化するの外あらんや」

…適正利潤を載せて売り、「もっと高く売っても良かったのに」と惜しむのではなく、「買ってくださってありがとうございます」という感謝に転じなければならない。

お客様の心に生じる一瞬の「お金がなくなって惜しい」という気持ちを、「買ってよかった」という満足に転じさせなければならない。

という意味です。商売とは克己と忍耐の営みであり、それを経験したことがないサラリーマンや一般庶民が「営利追求だ」と批判するのは当たらない。惜しむ気持ちが高まるほど、それを感謝に転ぜしめ、末永く存続させることが大事だ、という見識溢れる意見ですね。

就活でも、第一志望の面接が進み、あとは「最終面接だけだ」というところで不採用になれば、一時的には悔しい気持ちにもなるでしょうが、そこで「全然見てくれていない」、「なんだ、あの会社」などと幼稚なストレスに走るのではなく、「私に不採用という形でさらなる成長のチ
ャンスを与えてくださり、ありがとうございます」と考えてみてはいかがでしょうか。

◆「奢りを止め、道具好をせず、遊興を止め普請好をせず」

…身のまわりのものに好き嫌いを言わず、遊興をやめ、むやみに家の建築をしない。

という意味です。人は小金が入
ると、すぐに消費したがって不要なものまで買いたがるもの。それを抑え、長期的視野に立って事業を経営していかねばならない、という素朴な忠告です。

「普請好をせず」とは、現代語で言う「固定資産を買うな(不動産を買うな)」であり、安易な設備投資を戒めているという点で、おそるべき先見性と言うほかありませんね。

◆「是は天のなす所商人の私にあらず。天下の御定の物の外はくるひあり。狂ひあるは常なり」

…価格の変動は天のなすところであって商人の自由意思によるものではありません。価格が統制された商品以外は変動します。価格は変動が常態なのです。

という意味です。アダム・スミスよりも50年早く「市場経済」と「価格調整機能」の効用を定義している点で、梅岩の思想の深さ、正確さが窺い知れます。梅岩を学ばずに「マクロ」、「ミクロ」とは、わが国の経済学部は一体、何を学んでいるのか。

◆「伝へ聞き学んで知るは真の知にあらず」

…聞いただけで「分かった」などという人間いるが、そんなものは本物の知性ではない。
という意味です。「頭では分かっているんだけど」というのは単なる逃げの言い訳であり、そんなことは本来ありえないことです。行動に移らない限り、人は「分かった」などという言葉を軽々しく吐くべきではない…。

梅岩の謙虚さと思いやりが感じられる言葉ですね。

◆「主従一体の勢いは十を以て百に勝ち、一体せざる時は大勢却って頼むに足らず」

…社長と従業員が一体となった時の勢いは十の力で百の力に勝つが、一体ではない時は、その集団の数は多ければ多いほど頼りにならない。

という意味です。今でも「みんなが言うから」、「みんながそうするから」という理由で行動する人がいますが、「みんな」とは誰なのか。自分の願望に合致するというだけの理由で、勝手に風景から選び抜いた人々の群れに過ぎないのではないか。

優れたリーダーや一体となるビジョンがない場合は、その人間集団は多ければ多いほど行動を誤る。わが国の近現代史を見るにつけ、なんとも胸が痛む指摘です。

このように、今から300年近くも前に書かれた本でありながら、「都鄙問答」はアダム・スミスやベンジャミン・フランクリンの思想を半世紀も先取りする経済合理性と人間道徳の一致を説いており、これが後世に与えた影響は計り知れません。

トヨタが世界に誇る「カイゼン(改善)」運動の中核となった「看板方式」は、「TQC(Total Quality Control:総合品質管理)」という概念に裏打ちされ、この「QC サークル」の活動形態と効果は、先日の「業界ゼミ」でもご説明した通りですが、この「現代版・石門心学」を理論化したのは、「能率道」を提唱した上野陽一博士です。

上野陽一博士は、ドラッカーが「20世紀の偉人」と著書のあちこちで推奨しているフレデリック・ウィンスロー・テイラーの「品質管理」を学び、日本企業の業務改革に多大な影響を与えた経営学者ですが、上野博士が重視したのもまた、「都鄙問答」でした。

テイラーの貢献は、大月さんが好きな坂本藤良さんも、著書でよく引用しているようですね。

上野博士はのち、「アメリカ人はあまりに仕事と遊び、事務と享楽の区別を立てすぎる。東洋思想は仕事の中に享楽を発見するものである」と述べていますが、これは歴史がない国なので仕方ないでしょう。

「仕事を取るか、プライベートを取るか」という浅薄で貧しい思想は日本人、とりわけ若者の頭を犯し、多くの学生もこの思考方式に取り付かれているようです。

上野博士はそのような貧弱な職業観を憂え、テイラー方式に付け加えるべき「人間精神の振興」を求めて、「都鄙問答」に行き着いたわけです。

「たくさん仕事をしたら、遊ぶ時間が減る。でも、遊びすぎたら仕事に支障を来たす」。
このような「やらされ労働観」を超越し、仕事の中に人間的成長の喜びを求め、仕事を問題解決として積極的に取り組み、ひいては人生自体に大きな喜びをもたらして、周囲の人々に貢献していく。

「都鄙問答」は欧米の思想を超越した、さらに合理的で深い哲学を持った古典として、現代では世界的な研究が行われていますが、肝心のわが国でだけは注目されないのは惜しいことです。しかし、だからこそ我々は、これを学べば得られる可能性を前にしているのです。

『惜む心を止め、善に化するの外あらんや』。

これは、「お金を払った瞬間に生じるお客様の『惜しい』という気持ちを『買って良かった』という満族に変えよう!」、「仕事でプライベートが削られるなどと惜しむのではなく、仕事で自分が成長するからこそ、プライベートも充実するのだと感謝しよう」と考えてもよい言葉ではないでしょうか。

就活に際して、仕事そのものよりも「勤務条件」ばかりを見て、入る前から「オフ」ばかりを考えて会社を選ぶ奴隷のような学生も多くいますが、そういう哀れな学生さんも、「いっちょ、成長してやるか!」と思えたら、ずいぶん人生観が変わるでしょうに。

「都鄙問答」は明治維新で軽視され、福沢諭吉や渋沢栄一といった、日本資本主義のリーダーたちも、一旦は西欧の思想にかぶれて東洋精神を軽視します。

しかし、徳を忘れた国家運営で問題が噴出してからは、福沢も渋沢も自分たちの浅い見識を反省し、「都鄙問答」の精神に帰っています。

のち、「都鄙問答」が現代に蘇ったのは、大蔵大臣であり、渋沢栄一の孫である渋沢敬三が、日銀総裁・新木栄吉、第一銀行頭取・酒井杏之助、住友銀行頭取・堀田庄三と協力して、将来の日本のために、「石門心学会」の設立を積極的に支援したからです。

「やりたいことをやるのがいい」

「譲れないものを探せ」

「自己実現のために生きるのだ」

などという浅薄で意味不明な、片手落ちの職業観が支配的となった現代の雇用市場の悲しさは見るに堪えませんが、現代の学生さんにも、「都鄙問答」を分かりやすく解説すると、「すごい!」、「私もこんなに立派な生き方がしたい!」、「昔の人って偉いですね」という声が溢れることには、大きな希望を感じます。

皆様も、「惜しむ」を「ありがとう」に変えてみてはどうでしょうか。案外、そこに大きな気付きがあるかもしれませんよ。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

学生と若手社会人のための就職・ビジネススクール
mai place(マイ・プレイス)
http://maiplacehp.web.fc2.com/

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

『内定への一言』はmai place講師の小島尚貴氏が、全国96大学1100人以上の就活生に向けて、04年春から07年まで配信し続けたメルマガです。毎号冒頭に今日の一言を紹介し、時事問題や学生事情も取り上げ、ユニークかつ本質的な視点で解説します。全国の学生から毎年支持されている小島氏の就職活動・入社対策の教材はこちら。
http://maiplacehp.web.fc2.com/tuhan/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【内定への一言/歴史・古典】56. 「人自らを侮りて、しかる後、人これを侮る」(孟子)

56. 「人自らを侮りて、しかる後、人これを侮る」(孟子)


ゲーテは「手は外に出た脳である」と言っていますが、言葉もまた、「外に出た頭脳」です。

口に出した言葉には、その人の人生観や知性、アイデアの組み合わせ方が如実に反映されるものです。

FUNでは数々の名作、古典を紹介して一緒に読んでいますが、それも、同世代と美しく素朴な言葉と共感したい、という思いの表れです。

僕は最近、「執筆&校正」で半ば屋内に引きこもった生活をしていて、喫茶店を転々としています。

そこでは、FUNとは違う空間で就活を進める学生の話を聞くこともあります。

中でも聞き苦しいのは、「不採用」に対して複数の学生が否定的共感を確かめ合う会話です。

「あたしの就活、サイテー!筆記、全然通らんやん!」

「そうそう。面接もせんで、よく人を不採用にできるね、ってカンジ」

「面接もたった5分しかないし、せっかく東京まで行ったのに何よ!」

まぁ、こんな感じで一通り企業や担当者に対する不満をぶちまけた後は、お決まりの「同情タイム」に突入するようです。

そもそも、就活では企業のほうから「ウチを受けなさい」と指定することなどなく、全ての意思表示は求職者たる学生の方から行われるため、「企業の悪口を言う」とは、「自分の悪口を言う」と同じなのですが、彼女たちはそんな仕組みにも全く気付いていない様子です。

自分がどれだけ、苦労しているか。

自分の体験が、どれだけ「ありえない」か。

自分の予想が、どれだけ裏切られたか。

もはや使い道のないニュースに共感しあえるのは、同様の体験を得た友達だけのようで、お互いに同情しあいながら、「あんたはあたしを裏切らないよね」と確認しあっているようでもあります。

くだらん…。

同情なんて、大半の場合は「よくできた軽蔑」であるに過ぎません。

人は自分より優れた人には同情しません。仮に優しい言葉をかけているにしても、同情している限りは、相手への優越感が基盤になっているもの。

もちろん、これが人間性の深い部分に根ざして行われる場合もありますが、それは別の話で、同情とは、してあげるものではあっても、求めるものではないでしょう。

『孟子』には、「人自らを侮りて、然る後、人これを侮る」という有名な一節があります。

「人はまず自分で自分のことをバカにして、その後、他の人々がその人をバカにする」という意味です。

つまり、その人自身が自分を見限らない限りは、誰もその人のことをバカにすることはない、ということです。「周りがバカにする人は、誰よりも自分で自分のことをバカにしている人だ」ということですね。

「私はバカです」というサインを見つけたら、他の人もこぞって同情し、バカにする…人の世は、何千年たっても本質は同じであるようです。

毎年、「タテマエの第一志望に落ちてから読んで、ホンネの第一志望が見つかり、受かった」というドラマをもたらす本があります。

『後世への最大遺物』(内村鑑三/岩波文庫)です。

いつも就活前に紹介するのですが、まじめに受け取って読むのは半分くらいで、あとはSPIとかエントリーシートばっかりやってます。

書く話題が浅いのに、受ける情熱も定まっていないのに、なぜ個別の対策の方が大事なのか理解に苦しみますが、群集心理とはそういうものでしょう。要するに「みんなと違う準備をしている自分」を信じられないのです。

しかし、就活も受験と同じように、その本質は「孤独なもの」です。いずれは、全ての決断を自己責任で行わねばならないという、至極当たり前の現実に気が付くもの。

たかが通過点に過ぎない「内定」ごときを浅い気持ちで目指し、小手先の対策で続々「不採用」の通知を受け取り、持ち玉が尽き、「もしかして…」という未来を考えたら、やっと古典の言葉と素直に向き合えるようになります。

『後世への最大遺物』は、FUNの4年生の中では、毎年「最終面接前に読んでおいてよかった本ランキング」の堂々1位に入る本で、60ページくらいしかないので、ぜひお読みになることをおすすめします。

読んだら、自分が今「失敗」、「ありえん」、「サイテー」、「最悪」と思っていた現実が、実は本質的な成功の始まりだった、という事実に気付くでしょう。

「失敗が自分なのではなく、どう立ち直るかが自分」ということです。特に、「フランス革命史」という大著を書き残したカーライルの生き方を紹介したくだりは、どの学生さんも等しく感動するようです。

面接にしろ営業にしろ、交渉において人が試されるのは当然のことですが、その人がどういう人であるかを判定するには、むしろ、結果を得てからの方が分かりやすいものです。

望まない結果に錯乱状態に陥って醜い同情を求める人もいれば、ぐっとこらえて原因や本質を見極め、今まで以上の努力を行う人もいます。嬉しい結果に慢心して調子に乗る人もいれば、周囲に感謝して反省し、より謙虚になる人もいます。

短期的視点で活動する人にとっては、不採用は悔しいでしょう。しかし、自分の初心というものを見失わない人にとっては、不採用はさらに自分の器を広げるチャンス以外の何物でもありません。
早く決まること。

人からチヤホヤされること。

有名な会社に決まること。

などは、何の価値もないことです。傍観者のために仕事をするわけじゃないんですから。仕事はお客様と仲間、自分のためにやるものです。

内定を得た時、さらなる不足を受け入れて、未来のために感謝と誠意を持ってもっと勉強したくなり、今までの経験全てを受け入れることができる…そういうのが、良い内定です。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

学生と若手社会人のための就職・ビジネススクール
mai place(マイ・プレイス)
http://maiplacehp.web.fc2.com/

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

『内定への一言』はmai place講師の小島尚貴氏が、全国96大学1100人以上の就活生に向けて、04年春から07年まで配信し続けたメルマガです。毎号冒頭に今日の一言を紹介し、時事問題や学生事情も取り上げ、ユニークかつ本質的な視点で解説します。全国の学生から毎年支持されている小島氏の就職活動・入社対策の教材はこちら。
http://maiplacehp.web.fc2.com/tuhan/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【内定への一言/歴史・古典】55.「働かざる者、食うべからず」(レーニン)

55.「働かざる者、食うべからず」(レーニン)


読者の方からの質問はとても嬉しいものです。昨日は中国人留学生の方から、お便りをいただきました。今日はこれについて書きましょう。

まずは、ご質問にお答えします。

■「小島先生は、日本人ですか?」

⇒「小島さん」でいいですよ(老師も可?)。僕は純粋な日本人です。

■「どこでメールマガジンの内容を勉強してきましたか?」

⇒若くして赴任した東南アジア、30回旅したアジア、および経営者相手の法人営業&企業取材です。

■「日本の学生はどうして一番勉強できる大学で勉強しないですか?」

⇒日本人にとっての大学とは、「建物付き就職保険」だからです。つまり、勉強するより、満額払い終えて卒業証書をもらうことが大事、ということです。

■「小島先生は一般的な日本人と考え方が違うようですが、なぜそうなったですか?」

⇒「一般的な日本人」というのがどういう人々かは分かりませんが、僕は周りの日本人こそ「変な人たちだなぁ」と思ってます…。実は、これは長年の悩みの種でした。今では群集心理観察・分析は楽しみの一つですけどね。

Xさん、僕は大学2年の時に中退し、日本でいう大学3年生の夏には、馬来西亜の吉隆坡にある小さな貿易会社で働いていました。

そこは生活費が日本の「4分の1」だったので、僕は20歳のくせに「プール・駐車場付き」で首都を見渡せる高台の高層マンションの17階に住み、リッチな生活を楽しみながら、毎月どんどん貯金しました。

そして、帰国の途上ではシンガポール、タイ、フィリピン、韓国を8ヶ月旅行し、僕が関心を持っていた「経済制度と教育の関係」について、マレー語、英語、韓国語を駆使して「取材旅行」を行ってきました。

そして、22歳の時に帰国し、23歳からは経済雑誌の記者として、地場企業の経営者相手に取材・営業活動を続け、それから26歳の時に起業し、今に至ります。


ということで、僕はまともな高等教育は受けていません。最終学歴は「天草自動車学校」です。海外勤務、アジア旅行、経済誌が僕の大学でした。

初の社会人生活が「海外」だったため、僕も帰国当初は、自分が外国人みたいな気分に何度も襲われたものです。

次に勤めた会社は創業5ヶ月のベンチャー出版社だったため、「研修」なんて親切なものはありませんでした。

面接の翌日から「じゃ、今日から営業ね」と法人営業に行き、以来今まで2,000社以上を営業で回り、600社以上を取材してきました。

会った人がほとんど経営者だっただけに、かなり感化され、ますます「サラリーマン」とは意見が合わなくなりました。

それから独立し、人様の「就職」をお世話する仕事を始めて、縁あって大学生のサークルをお手伝いすることになり、そこで大学生の職業観に触れる中で、ふたたび「異文化交流」のような驚きを感じました。

なぜかというと、日本の若者が口にする「仕事」、「就職」、「お金」に関する意見は、その大半が、立派な「社会主義」に立脚する意見だったからです。

本人たちは意識していないし、学習した覚えもないでしょうが、日本の学校教育では多分に社会主義的価値観を注入されるので、無意識のうちにそうなるのでしょう。

僕は授業中は寝てばかりで、教科書さえ忘れていたため、はからずも、その影響を免れることができたのかもしれません。

僕は20歳で発展著しいマレーシアに赴任し、そこで世界各国のビジネスマンと出会う機会を得たので、こういう価値観のギャップにも気付きやすい素地が形成されたのでは、と今になって思います。

Xさんのお国は、タテマエ(外面的ポーズ)としては「共産主義」を表明していますから、中国の義務教育がどういうものかは知りませんが、その理論の基礎くらいは学ばれたかもしれません。

しかし、以下の内容を知ると、Xさんの国よりも、日本の方がよっぽど共産主義的な国だと感じることでしょう。

試しに、日本人の友達に会ったら、「働かざる者、食うべからず」という言葉を知っているかどうか、聞いてみて下さい。ほぼ全員が知っていると思います。

次に、「では、それをどう思いますか?」と聞いてみて下さい。ほぼ全員が「そうだと思う」と答えるでしょう。

さて次には、「では、働くとはどういうことですか?」と聞いてみて下さい。「額に汗して」とか「体を使って」という意味の答えが多いと思います。

ほとんどの日本の若者にとって、「働く」とは、「体を動かすこと」を意味します。涼しいオフィスでじっと考え事に耽り、雇用を生み出すようなビジネスを作る働き方は「働く」ではなく、「体を動かし、汗を流す」ことが大事です。

「働かざる者、食うべからず」

「血と汗と涙」

「体が資本」

…聞き覚えはありませんか?これらは全て、レーニンの言葉であるということを。

次に「お金」についても質問してみると面白いですよ。試しに、「税金が足りなくなったら、お金持ちからたくさん取るべきだと思いますか?」と聞いてみて下さい。

ほぼ全員が、どれくらい考えたのかは別として、「そう思う」と答えるでしょう。「金持ちは、悪いことをしないとなれないと思いますか?」と聞いてみると、半分くらいが「そう思う」と答えるでしょう。

ここにも、「資本家が労働者を搾取する」とか、「資本家の富を奪還して人民に平等に分配せよ」というレーニンの言葉が見え隠れしています。

また、「収入」や「福祉」についても聞いてみて下さい。「人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取るべきだと思いますか?」と聞いてみると、「それはそうだ」と答える学生が多いでしょう。

資本主義なら「必要に応じて働き、能力に応じて受け取る」となるはずですが、共産主義の教祖・マルクスは、『ゴータ綱領批判』の中で、「人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」と理想社会を描いています。

「努力はあまりしなくてよい。受け取るものは遠慮しない」という有名な思想ですよね。まるで現実を無視した原始人のような思想ですが、これをそのまま福祉政策に反映させ、財政事情がおかしくなったのがわが日本です。

最後に、「給料を払ってくれるのは、誰ですか?」と聞いてみるのもいいでしょう。おそらく大半の学生は、「会社」と答えます。

冗談じゃない。給料を払ってくれるのは「お客様」で、会社は一時的に収益を預かり、それを分配する組織に過ぎません。

なのに、日本の労働者の多くは、会社に「給料上げろ!」と集団で要求すると、本当に給料が上がると思っています。それは、正しくは「インフレ」と言うのですが、大半の労働者はその仕組みも知りません。

さて、わが国では、春になると日本名物の「春闘」というイベントをやっています。

今どき「給料を払ってくれるのは会社だ」なんていう骨董品のような考えを持った人たちは、中国でもお目にかかれないと思うので、ぜひ記念写真を撮ることをオススメします。

働けばそれ以上稼げる時間を放棄して、昼間から「給料上げろ~!」とやっていて、年間数千円上がったくらいで「勝利」とか言っているんですから、夜のバラエティ番組よりよっぽど面白いですよ。

Xさんの国で「給料を払ってくれるのは?」と聞くと、「実力」、「人脈」、「知識」という答えが返ってくるかもしれませんね。あるいは「共産党の友達」、「賄賂」、「コネ」、「学歴」となるかもしれませんが…。

しかも、極めつけは、これはぜひ「日中比較文化論」のテーマにもしてほしいんですが、わが国の大半の人々は、学校で教わった通りに「人間は平等である」と思っている、ということです。

理想としては素晴らしい考えですが、現実の世の中、差がない分野を探す方が難しいくらいです。

レーニンは『国家と革命』の中で、「人間は平等ではない」と書いています。

だからこそ、幼い頃から繰り返し繰り返し「人間は平等だ」という観念を植え付けていくわけです。

そうすれば、大人になるに従って「おかしい!世の中は平等なはずなのに!」と怒りが生じ、その矛先を「政府」に向けて、待望の「革命」が起きる…という思想ですよね。

そうすれば、多くの国民に「私は弱者」という自己認識が生まれ、同一の政策に賛同しやすくなる、ということです。

「私は弱者」という人が多くなったら、どうなるでしょうか?

Xさんの国では「選挙」の経験が歴史上存在せず、今もって「一党独裁」の政治をやっていますが、民主主義のわが国では、「多数派=権力者」、つまり「強者」となります。

「オレ、弱者!」、「私も!」、「オラも!」、「わしも!」…と、続々と弱者が集まって「選挙権」を行使すれば、それはもう、立派な「強者」です。

強者とは、社会変革に影響を与えうる立場にある人たちを言うのですから、一人一人が「弱者」でも、集団化すれば「強者」となるという発想もまた、レーニン直伝と言えるでしょう。

わが日本の「本当の弱者」は、「金持ち」です。頑張って起業し、多くの人々の雇用を創造して、多くの税金を納め、資源も武器もない日本を世界の一等国にしたのは、多分に経済人の貢献によります。

なのに、経済人や起業家、お金持ちは、いくら頑張っても「悪いことしてるはず」、「ケチ」、「欲の権化」といった偏見でいじめられます。

のみならず、不況で倒産すると個人財産ごと差し押さえられ、財産を相続すると「財産没収税」に近い「相続税」が課税され、儲かると真っ先に税金を引き上げられ、まったく、おかしな社会です。

「自称・弱者」の強者ほど手に負えない人はいませんよ、ほんと。

この人たちは基本的な経済観念が確立しておらず、会計の初歩も分からないため、候補者が「年金を充実させます!」、「福祉を充実させます!」、「故郷を発展させます!」と言えば、本当にそうなると信じています。

ということで、「皆さんに与えます!」という候補者が全国で当選し、全国に税金をばらまいた結果…。

日本政府は記録的な借金を抱えてしまいました。

面白いでしょ?こんなに国民一丸となって国家的パロディを演じている国が、他にあるでしょうか?「社会主義市場経済」と言っているアジアのどこかの大国と同じくらい、奇妙ですよね。

僕は学生時代に相当する約2年を海外で過ごし、働きながら勉強したため、「オレの国はどこか変だぞ」と思い続けてきました。

その「変なところ」を解決すべく、コミュニケーションやマネーセンス、時間管理、リーダーシップなどの分野であれこれ考え、人間性と経済合理性に基づいて体系化し、それを会社の商品として提供してきました。

それはまぁ…ヒットしたと言えるでしょう。

現在お手伝いしているサークル・FUNでも、日本の伝統精神と人間性、経済合理性のバランスは等しく考えているところです。

相手が学生なので教えられる範囲も限られていますが、「日本に生まれてよかった」、「この社会に幸せを届けたい」という気持ちで社会に出てくれれば、顧問としての役割も一応果たしたことになるのでは、と考えています。

ということで、僕のメルマガが奇妙な構成で、多くの学生さん、今では社会人の方からも「むかつきながらも、一理ある」ということでお読みいただいているのは、そういう僕の独自の経歴や研究のためだと思っています。

しかしまぁ、今のような教育や職業観では、若者があまりにかわいそうなので、僕も仕事の合間になんとか「働く楽しさ」、「儲かる働き方」、「楽しい働き方」を教えていたら、こんなに大きなサークルになってしまったんです…。

「日本は社会主義で、中国は資本主義」。お互い、仮面をかぶっていて面白いですね。

Xさん、ご質問とご意見、どうもありがとうございました。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

学生と若手社会人のための就職・ビジネススクール
mai place(マイ・プレイス)
http://maiplacehp.web.fc2.com/

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

『内定への一言』はmai place講師の小島尚貴氏が、全国96大学1100人以上の就活生に向けて、04年春から07年まで配信し続けたメルマガです。毎号冒頭に今日の一言を紹介し、時事問題や学生事情も取り上げ、ユニークかつ本質的な視点で解説します。全国の学生から毎年支持されている小島氏の就職活動・入社対策の教材はこちら。
http://maiplacehp.web.fc2.com/tuhan/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【内定への一言/歴史・古典】54. 「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った」(夏目漱石)

54. 「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った」(夏目漱石)


漱石の『夢十夜』は、明治41年の夏、朝日新聞で連載された作品で、その名の通り、漱石が見た夢について書いています。

時代背景も場面設定もそれぞれなのですが、漱石らしい洞察が働いていて、古めかしい文体でキリッとした読後感が残ります。

その中でも特に知られているのは、第六夜です。「運慶が仁王像を彫る話」は、昔読んだことがある方もいるのではないでしょうか。

僕はこの話が、就職活動や仕事にも深くつながる大切な真理を説いていると思っているので、3年ほど前にご紹介しました。

夢の中で漱石が、運慶が彫刻をしている現場にさしかかり、芸術の心構えを回想した短文です。

~夢の中で鎌倉時代に来てしまった漱石が、あるお寺で運慶が仁王像を彫っているところに遭遇した。

場面は鎌倉時代だが、見物人はなぜか明治の人たちで、運慶の彫刻の様子を見て、しきりに何か言い立てている。

ある者は像の大きさ、ある者は彫刻の大変さ、ある者は仁王の強さを話題に騒いでいるが、運慶はそんな話も一切耳に入らないほど、彫刻に打ち込んでいる。

運慶はすさまじい気迫と技術で黙々と彫り続け、見物人たちも完成していく様子に興味を惹かれ、色々な感想を述べる。

ある者は運慶の芸術家としての態度、ある者は達人の域にある運慶の技のすごさ…。

それほど、運慶が仁王像を彫り進めていく勢いと技術は優れたものだった。

ある男が言った。「あんなに無造作にやって、よくあれだけの像が彫れるものだ」。

すると、ある男が答えた。「違う。あれは、もともと木の中に眠っているものを彫り起こしているだけだ。必ずあるものを彫るのだから、間違うことはない」。

それを聞いた漱石は、この考え方が面白いと思って、早速自分でも試してみることにした。

帰って自宅の庭を見ると、手ごろな木材があったので、早速彫ってみたが、その中に仁王はいなかった。次の木にも、またその次の木にも、やはり仁王はいなかった。

他の木でも試してみたが、最後に行き着いたのは、「明治の木には仁王は眠っていない」という結論だった。

それで、自分にも今日まで運慶が生きている理由というものも分かった。~

要約すれば、たったこれだけの文章です。ですが、この意味するところは、実に深いものがあると思います。

漱石は彫刻においては「素人」であり、なおかつこれは「夢の中」の話ですが、最後を「明治の木には、仁王は眠っていなかった」としているのが面白いところです。

ミーハーな見物人たちは、運慶という有名人について語ったり、彫刻技術について論じたりし、仁王のすごさや日本の歴史で誰が本当に強いのかなど、本質とはあまり関係ない表面的な話題でにぎわっています。

当の運慶は、そんな観客の言葉など聞こえないほど、というよりその存在も見えないほど、一心不乱に彫刻に打ち込んでいます。ほどなく完成に近付き、その神業のような技術に驚いた人たちが、また論評を始めます。

「テキトーそうに見えるのに、うまくいくなんて、すごいね」

「違う。あれは、木の中に元々仁王像があるんだ。だから間違うこともないんだ」

「そうだったのか。じゃあ、誰でも仁王が眠っている木さえ見つければ、できるじゃないか」

「木の中に仁王が眠っている」というコメントを発した人は、おそらく芸術家的な直感と信念の鋭さを意図したのでしょうが、「芸術の素人」である漱石は、これを「物理的に眠っていること」と解釈してしまい、早速自分も家に帰ってやってみよう、と考えま
す。

家で適当な木材を探し、次々と彫ってみるのに、どうもうまくいきません。どうも、漱石の家の木には、仁王像は眠っていなかったようです。

「なーんだ、最近の木(明治の木)には、仁王はいないんだ」。

だから、運慶が今の時代まで生きているんだなぁ…なるほど。

さて、ここから、就職活動や仕事について考えてみましょう。

漱石は作家らしく印象深い終わり方で締めくくっていますが、本作品で意図するところは、「精神の退廃」に対する一種の警告めいたメッセージともいえるでしょう。

本当は「明治の木だから仁王がいない」のではなく、「仁王を信じず、描こうとしない人が彫るから、仁王がいない」のです。

それを漱石は自分が「芸術の素人」になることで、「明治の木には仁王がいない」と言っていますが、これは当時の大衆の浅薄な心理を読み取り、「そういうことじゃないんだよ」という含みを込めたものかもしれません。

試みに第六夜を、就活に置き換えてみましょう。場面は平成時代。登場人物は「商社を受けたい学生たち」。

~ある大学のある食堂に、学生なら誰もが憧れる商社に内定をもらった男がいた。彼は内定を得た後もその情熱を衰えさせず、黙々と財務諸表や語学の勉強に熱中していた。

それを見ていたある学生が、「すごいもんだなあ」と言った。「レポートなんかより、ずっと大変だぜ」と別の学生が答えた。

ある男子学生が「内定をもらったのに、勉強なんてするものなんだね。自分はすっかり、就活とは内定で終わるものとばかり考えていた」と言えば、またある女子大生は、「てかさ、やっぱりマスコミじゃん。アナウンサーか客室乗務員が一番カッコいいんだって」と言った。

彼は周囲の感想など全く聞こえないかのように、黙々と貸借対照表を分析しては、将来の取引先となる企業や業界の研究に打ち込み、企業再建策や受注高増加策を書き出していった。

「さすがあいつだ。周囲の雑音など、全く耳に入らないかのようだ。憧れの仕事と自分、それだけで世界を構成しているかのようにも見える」。

「あの電卓さばきを見ろよ。あれは職人芸だ」。

「しかし、よくもまあ、あれほど雑に速くやっているのに、しっかりとした資料が仕上がるものだなぁ」。

「違う。あれは元々正解があるのを、簿記や英語を学べば、探り当てることができるんだ。もともとそこにある正解を突き止めるんだから、間違うことなんてあるものか」。

ある学生は、最後のこの言葉を面白いと感じ、早速自分も会計や英語を学んでみることにした。

家に帰り、簿記の教科書の1ページ目を解くも、全く流通業界の課題は特定できなかった。また、TOEICのテキストを開くも、全く商社の未来像は見えなかった。

「なんだ、簿記や英語をやったって、商社の内定なんて見えないじゃないか。たぶん、このテキストが間違っているんだ。今の時代には、そうそう商社に役立つ参考書なんてないに決まってる」。~

いかがですか?「夢十夜・現代バージョン」の「第六夜・就活編」とでもいう趣で構成してみましたが、こう置き換えてみると、現代の学生がいかに表面的でどうでもいいことばかり考え、しかもそれを「就活」と偽称しているか、よく分かるというものです。

冒頭で紹介した「財務諸表と語学に打ち込む学生」は、商社業務の本質を見て、とにかく取引先を助けたい、自分も役立つ社員になりたい、ゆくゆくは国際的に活躍する人材になりたい…という鮮明で強烈な未来像を描いているからこそ、猛烈な勢いで勉強し、次々と資料を作れたのです。

決して、参考書がいいとか、受けた会社とたまたま相性が良かったとか、書類選考やSPI、面接で聞かれた内容が事前の準備と合致していた、という浅はかな理由で内定したのではないのです。

しかし、そこに「情熱」や「魂」、あるいは「仕事の本質」を見ようともしない学生は、「そもそもどの業界が一番すごいのか」とか、「どういう対策がいいのか」などと、どうでもいい話に花を咲かせる。

仕事の本質に感動した人間から見れば、そういうのは雑音に過ぎず、いちいち耳を貸す必要はない。

彼の勢いや気迫に圧倒され、それにあやかろうと、ある学生は同じ参考書を買ったり、同じ合同説明会に参加したりするが、結局のところ、最後に行き着く結論は「このテキストじゃ、だめだ」、「今回の合説は運が悪かった」くらいしかないだろう。

最後の最後で何を思い、何を言うかで、彼が「就活」という木材の中に何を見ていたか、あるいは何を期待し、何を準備して就活に臨んだかは、手に取るように分かるものである。

「理想の未来像」、「心から同意できる自分の姿」なきところで、いくら良い木材を使い、良いとされる道具や教科書を使おうが、所詮は意味のないことである。

…夢十夜の持つメッセージを現代の就職活動に当てはめれば、さしずめ、このような感じでしょう。

入社3年にも満たない、右も左も分からない素人であれ、「なりたいトップ営業マンの姿」を描いて黙々と努力すれば、「会社」や「社会」という木材の中から、「トップ営業マン」という仁王像を確実に彫りだすことができます。

「就職に不利」という意味不明な偏見を持たれる文学部の学生であれ、「銀行業務の本質的社会貢献」を知った感動を維持し続ければ、「就活」という木材の中から、「理想の銀行マン」という仁王像を彫り出すことができます。

「周囲に期待され、応援される期待の新卒」という理想像を描いて「大学」という木材を彫り続ければ、「悔いなき学生生活」、「心から歓迎できる社会人生活」という仁王像を彫り出すことができます。

しかし、理想像や信念、哲学、職業観が薄弱なまま、表面的な環境やツールばかり変え続けても、そこには永遠に「仁王像」という憧れの対象が登場することはないでしょう。

最後は「うちの大学には、チャンスはないね」とか、「この業界、受けるべきじゃなかった」とか、「そもそも民間企業は受けたくなかった」とか言うでしょうが、それは外的環境がそうだからではなく、その人だから失敗と後悔に終わっただけ、そう考えるのが妥当です

漱石は第六夜を「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った」と締めくくっています。

それは、明治になって、鎌倉時代とは生態系や自然環境が変わり、仁王像を彫るに適した樹木がなくなったから、運慶の作品が残っている、という表面的、物理的印象の述懐ではありません。

明治という時代になって、運慶ほどの精神と想像力を持って芸術活動に打ち込むアーティストがいなくなった、という実感を「明治の木には仁王はいない」と皮肉めいて表現したのであり、だからこそ「運慶が今日まで生きている理由が分かった」としているのです。

皆さんは今、どういう木材を選び、どういう道具で「未来の自分」を彫ろうとしているでしょうか。

木材も大事です。道具も大事です。しかし、そこに「未来像」や「信念」、「熱意」、「仕事への愛情」という根本がなければ、「大学生活」や「就職活動」という芸術的創作活動は失敗に終わる可能性もあります。

就活や仕事の本質を見失わず、理想の「仁王像」の実現を求めて、日々、価値ある創作活動を展開されるよう、願うばかりです。
以上、今日は「国文学に学ぶ就活の心構え」についてお話しました。
『夢十夜』
http://www.aozora.gr.jp/
(インターネット図書館『青空文庫』)


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

学生と若手社会人のための就職・ビジネススクール
mai place(マイ・プレイス)
http://maiplacehp.web.fc2.com/

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

『内定への一言』はmai place講師の小島尚貴氏が、全国96大学1100人以上の就活生に向けて、04年春から07年まで配信し続けたメルマガです。毎号冒頭に今日の一言を紹介し、時事問題や学生事情も取り上げ、ユニークかつ本質的な視点で解説します。全国の学生から毎年支持されている小島氏の就職活動・入社対策の教材はこちら。
http://maiplacehp.web.fc2.com/tuhan/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (2)

【内定への一言/歴史・古典】53. 「守文ハ草創ヨリ難シ」(貞観政要)

53. 「守文ハ草創ヨリ難シ」(貞観政要)


連休明けになると、「就活で挫折した」などと言う学生が増えてきます。

挫折や失敗、予想外のハプニングなどを延々と語り合う学生を見ると、そのあまりにヒマな様子に、「これじゃ、どれだけチャンスがあっても挫折以外できないだろうな」と思ってしまいます。

さらに理解できないのは、彼らが「挫折」と呼んでいる現象は、全く挫折などではない、ということです。

挫折とは、どういうことなのか。

自分が味わっているものがもし挫折でなければ、今日からチャンスを掴むことも十分可能です。しかし、もし本質的に全く違うものを挫折だと誤解しているなら、矛盾に鈍感な未開人以外の何物でもありません。

去年FUNゼミの「リーダー塾」でも紹介した『帝王学~貞観政要の読み方~』の「まえがき」を開くと、貞観政要で最も有名な一言である言葉が出てきます。

皇帝・太宗が家臣の房玄齢に「草創ト守文、イズレガ難キヤ」(創業と守成ではどちらが難しいか)と聞くと、房玄齢は…「守文ハ草創ヨリ難シ」と答えます。

今の言葉に直すと、「物事を維持・発展させることは、新しく何かを生み出すことよりも難しい」。

つまり、新たな創造よりも、出来上がったものを守り育てる方が大変だ、と言っているのです。

これは、一般的な通念とは異なる解釈のように思えます。

「創造が不得手」とされる私たち日本人は、とりわけ創業や新たなアイデアを重宝したがりますが、実は「今あるものを守る方が難しい」というのですから、どういうことかと気になってしまいます。

確かに何事も成功するのは大変だが、創業よりも大変なことは存在しないのではないか、と思う人もいるでしょう。

『帝王学』には、創業の苦労は「確かに大変だが、不足や困難が陽性で見えやすく、問題や意欲を共有しやすい」という特徴を持っていると説明されています。

一方、守成の苦労は「単調で課題が見えにくく、細やかな心配りと長期的な忍耐を要する」という陰性の特徴を持ち、ゆるやかに組織や個人を腐らせていくことが書かれています。

どちらも、それ相応の特徴を持っているわけですが、貞観政要では「守成の方が難しい」とされているわけです。

では、これを学生生活や就活に当てはめて考えてみましょう。

僕がFUNで5年近く学生さんと接してきた限りでは、サークルの見学時において、最も雄大な夢と積極性を持っているのは一年生です。

一年生の意欲や夢に触れ、「まだまだ世間を知らないね」という先輩もいるでしょうが、そういう人は既に夢を捨てただけで、要するに嫉妬しているだけです。

見学に来て入部する比率が少ないのは二年生で、毎年、就活のためだけに入った学生は辞めやすく、連休明けや内定後に入った学生は卒業まで続きます。

酒なし、遊びなし、コンパなし、休日の早朝から勉強、いくら取材をして記事を書いても単位も手当てもない、という完全実力主義、自己本位のサークルですから、こういうサークルに来る1年生は文句なく意識が高いです。

就活が終わってから入る4年生が最大のグループですが、こういう学生さんたちも具体的な成長意欲を持っています。

このように、いつ、どういう動機で入部したかは、その後の成長や活動への参加姿勢に如実に反映されるというのが、顧問として見てきた4年間の偽らざる感想です。

そして、5~7月という、一般的な学生が最も手を抜きやすい時期に入部した学生は、コツコツ参加して成長する傾向が強いように思えます。

別に、小さなサークルでの限られた経験から「現代学生気質」を論じようとは思いませんが、学生の行動を観察してきて、一つ断言できることがあると感じています。

それは…「多くの学生は、逆境ではなく、順境で夢を裏切る」

ということです。

例えば、学生さんはよく、学生同士で「就活で現実を知ってへこんだ」、「お金がなくて留学を断念した」、「TOEICで英語力の不足を知って勉強に挫折した」と話します。

何を言わんとしているのか、まったくもって意味不明の思考回路です。

こういう思考習慣や言語感覚が、いかに異常で不可解なものであるか、当の学生さんだけは気付いていないかのようです。

本当に就活や留学、試験が自分の夢を挫いたのでしょうか。

そんなことはありません。

学生は、就活や入社といった出来事を「逆境」だと見なすこともありますが、実際にそれらが逆境であるはずがなく、自分のレベルの下落は、既に順境において完了していた、と考えるのが適切です。

就活や試験などの「逆境に見える状況」は、ただ自分の力不足を顕在化させるだけで、逆境が人を挫けさせるのではありません。

ましてや、逆境がその人から能力を奪ったり、その人の価値を下げるなどということは絶対にありません。

ですから、「逆境で挫折した」という種類の言葉遣いは、基本的な事実を誤認した倒錯心理に過ぎません。能力や知識の減少、下落、劣化は、とっくに終わっており、逆境はそれを自覚させるだけです。

つまり、人生の真実は、まず挫折が逆境に先立って起こり、確実に自分を蝕みながら、能力の棚卸しを迫られる試験や就活などの時期を迎えて、乗り越えられない自分を認めた時、「挫折した」と感じる、ということです。

そして、「夢を捨てた」とか、「へこんだ」と言う学生が大量に出現するわけです。

しかし、逆境で夢を捨てることやへこむことなどはありえず、正しくは、夢は逆境を迎えるよりもずっと昔に「捨てられていた」のであり、気持ちもはるか前にへこんでいたのです。

例えば、入試や試合など、「認識しやすい課題」がある時は夢を維持し、受験や練習に力を入れる人はたくさんいます。

つまり、予想に反して、実際には、人は逆境の渦中にある時の方が夢を捨てないわけです。

というより、自分が逆境だと自覚している範囲の中で、人はより具体的な努力を行う動機付けを自分に対して行いやすくなる、ということです。

ところが、見えやすい敵が去った後に自分の意志を強く保ち、やるべきことを前倒しでやれる人の、なんと少ないことか。

試練が去ると、若者はすぐに言い訳の天才になり、次々と「今はまだ頑張らなくていい理由」を作り出して、自分からどんどん夢を裏切っていきます。

例えば、受験勉強の本来の目的は「大学で勉強すること」であるはずですが、「有名大学に入れればそれでいい」などという意味不明な動機で勉強した学生は、入学した途端にサル化していきます。

入学当初、あるいは学年が上がった当初、つまり4月のうちは「頑張るぞ!」と思って、色々とやりたいことを描いていたのに、連休を経て本性が現れ、自分で自分の夢を叩き潰す学生も多いものです。

自分の時価総額は際限なく下落し、知性、精神力、体力も暴落して、しばらくして新たな敵に出会った時、自分の側に何も準備ができていないことに驚いて恐怖におののく学生は後を絶ちません。

「敵国外患無キ国ハ常ニ滅ブ」(孟子)とも言うように、張りを失った学生も「順境」の中で滅び、目覚めた時には、昔の夢に到底間に合わない老化した自分を発見するのです。

強制や命令といった外圧の中で頑張るのは誰でもできることで、そんなものは努力とは呼びません。

自ら定めた計画を遅滞なく、質を下げずにこなせてこそ、本当の努力だと言えます。

まさに「守文ハ草創ヨリ難シ」。

学生といえども、この鉄則から逃れることはできません。挫折はいつも、逆境ではなく順境のうちに進行し、逆境において自覚されるだけです。

就活で「へこんだぁ~」と言っている学生さん。本当に「就活で」へこんだのですか?「既にへこんでいた」の間違いではありませんか?事実をごまかすと後からもっと苦しくなるので、正確に見極めたいところですね。

あるいは、まだ自分は本当に挫折してはいないと感じるなら、友達の内定に嫉妬したり、同じ状態の学生と集まってお互いの不運を嘆いたりするのは、最大の時間の無駄ではありませんか?

アランの定義集(岩波文庫)には、恐怖の本質が書いてあります。

「恐怖の恐怖たるゆえんは、その人を完全に飲み込んでしまい、恐怖への自覚を奪ってしまうことだ」と。

つまり、「本当の恐怖とは、ちっとも怖くない」ということです。

先月までは「しなくちゃ大変」と思っていたことを、いつの間にかサボってしまい、気付けば「こんな生活だけはしたくない」と恐れていたのと全く同じ種類の生活の真っ只中にいる自分を発見した…。

このように、本当の恐怖はいつも優しく寛容で、「それくらい、別にさぼっていいじゃないか」とにこやかに語りかけてくるものです。

それに答えて「そっか、まだいいよね」と誘いに乗り続けるうちに、恐怖は確実にその人の可能性を食い尽くし、未来の希望を奪っていきます。

「授業出なきゃやばい」が「補講出なきゃやばい」に劣化し、「ノート借りなきゃやばい」が「単位取れなきゃやばい」に劣化し、「就職しなきゃやばい」が「卒業しなきゃやばい」に劣化していく…。

優しい恐怖に飲み込まれるほど、自分を自分らしく保つハードルは確実に一段ずつ下げられ、最後は、高校時代の自分でもできていたことさえできない「元本割れ人間」になってしまうことさえあります。

こういう人も、「学生」のうちは高い初任給を払って雇う「新卒」として扱わねばなりませんが、学生証を失えばただのプーなので、卒業を待って、安値で買い叩く派遣会社が続々と現れます。

このように、「昔怖かったことが、今はもう怖くない」という心理的変化は、本当に克服したという場合を除いては、人間的劣化現象の結果で、既に恐怖に飲み込まれ、痛覚を失った哀れな人間というほかありません。

事故や怪我で神経障害を持った人は、痛覚を失って普通の人が「痛い」と感じることが痛くなくなり、それだけ考えると「いいなあ」と思う人もいるかもしれませんが、自覚を失った本人の体は傷だらけになっていくそうです。

いくら周囲の人が「ケガしてるよ!」、「血が出てるよ!」、「そのままだと死ぬよ!」と言っても、本人だけには、全く危機感も回避への準備も生まれない…。

ほんと、同世代の狭い世界でまとまってしまい、そこで流通する情報だけが世の中の真実だと錯覚すると、大学も老人ホーム状態になるのだと感じます。

「怖い」という感覚を健全な範囲で残して生活や勉強、仕事に取り組むことは、自己管理の基本中の基本ではないでしょうか。

このような恐怖の本質から考えても、恐怖が恐怖だと自覚、理解できている創業期や逆境の方が、より「親切な環境」だとも言えます。

恐怖が恐怖の姿をしていない時にこそ、人は「守成」に失敗して挫折していくわけですから。

全ての勉強や仕事は「人生自体の本質的リスクマネジメント」の性格を持っているのですから、リスクを失った人間が腐敗していくのも、やむをえません。

その意味では、「五月病」なる意味不明な無気力現象は、物事の本質を考えようともせず、考える力もない知的、精神的未開人だけがかかる「自己責任の天罰」だと考えていいでしょう。

ということで、このように、まず順境で自ら夢を潰し、逆境で潰れ具合を再確認する学生も多いものです。

「新しい学年にも慣れてきた」という心地になり、順境が始まるとされる連休明けこそ、大切な守成の時期が始まると心得、地道な成長を歓迎したいものですね。

逆境を嘆いていた学生さんも、長期的視点に立って今の意味を考えてみれば、勇気が湧いてくるのではないでしょうか。

「昨日内定していたら、今日の努力はできなかった」と考えれば、今味わっている逆境に感謝できる日がきっと来ますよ。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

学生と若手社会人のための就職・ビジネススクール
mai place(マイ・プレイス)
http://maiplacehp.web.fc2.com/

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

『内定への一言』はmai place講師の小島尚貴氏が、全国96大学1100人以上の就活生に向けて、04年春から07年まで配信し続けたメルマガです。毎号冒頭に今日の一言を紹介し、時事問題や学生事情も取り上げ、ユニークかつ本質的な視点で解説します。全国の学生から毎年支持されている小島氏の就職活動・入社対策の教材はこちら。
http://maiplacehp.web.fc2.com/tuhan/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【内定への一言/歴史・古典】52.「肥沃な土壌も、耕さねば雑草しか生えない」(プルターク)

52.「肥沃な土壌も、耕さねば雑草しか生えない」(プルターク)


昨日は『FUN営業塾』第2回で、「見込み客の作り方」について学びました。

できない営業マンが持っている「見込み客=商品を買ってくれそうな人」という一方的な勘違いを修正し、努力するほど結果が出る考え方について説明したのですが、参加している学生さんの素直なこと…。

「一方的な願望を仮託した思い込み」は、「思い入れ」とは全く違った形で計画の成否を分けてしまいます。

人生で持つストレスの大半は、周囲や環境が自分の期待通りではないことから生まれる徒労感や挫折感が積み重なったものでしょう。言うなれば「過剰な願望に勝手に裏切られている」ということです。

「他人に期待せず、ただ信頼して、自分に期待する方向に努力の性質を変えていったら、一切のことを他人や環境のせいにせず気持ちが楽になった」とは起業した友人から等しく聞く実感です。

昨日はついでに、本メルマガでも2年ほど前にご紹介した「体験と経験の違い」についても触れました。

「体験」とは、こちらが何もせずにいても、あちらから降りかかってくる人生のイベントのこと。それはただ「受けるまま」に現実を味わうので、そこには何の主体性も工夫も生まれず、過ぎ去って残るのは「感想」のみです。

一方「経験」とは、体験に処し方、乗り越え方を考えて立ち向かった履歴のことで、こちらは「自己最適化」の努力が常に払われ、回数を重ねるほど対処が上手に、しなやかになっていきます。

営業マンにも、ただボーッと単調な作業を繰り返して数年たち、全くうだつが上がらないまま年だけを重ねる人がいます。

それで学生に会うと「営業をなめたらいかんぜ。オレは5年の体験があるからよく分かってるんだ」などという労働価値説の信奉者が多いものですが、工夫と情熱のない体験など、何年重ねようがムダの塊に過ぎません。

就活でも、必死に暗記した「自己PR」やら「志望動機」を自己紹介が終わるや一方的に、九官鳥のように暗誦し、不採用通知の山を築き続ける学生がいます。

そして、後輩に会うと「就活をなめたらいかんぜ。オレはもう50社選考を受けてきたからよく分かってる。体験に勝る勉強はないね。何かあったらオレのところに聞きに来い。相談に乗ってやる」と言います。

そういう4年生がどんな社会人になるかは、既に今の時点で明らかなことです。

ただ「就活」だからと受身の体験を重ね、何社の選考を受けようが、そこには何の成長も発展も存在しません。体験は人の頭を頑迷固陋にし、経験は人の頭を柔軟に、心を素直にするものです。

ですから、「トップ営業マンになりたければ、体験ではなく経験を重ねることだ」ということで、その経験の基準、成長の定義、前進が起こる仕組みについて説明したのが、昨日の第2回でした。

この「体験と経験」と同じく、学生さんと話していて「なんと幸せな勘違いをしているのか」と思うのが、「可能性」という言葉です。

どうも学生さんは、ただ「若い」というだけで自動的に可能性があるのだと錯覚してはいないでしょうか。

「保有時間が多い=良いことが起こる確率が高い」などという甘い願いは、スロットに打ち込むおじさんと何も変わりませんが、同世代同士でいるとこんな単純なことにも自覚が働かなくなるのかと不思議です。

可能性とは、保有時間や残り時間が多いことから生じるのではありません。それは、純粋に計画、準備、努力からのみ生じるもので、これらに裏付けられない計画は「悪くなる可能性」しかありません。

確かに、「学生時代」は4年間という時間が与えられ、そこでは自由に何にでも挑戦でき、いくらでも変化と成長の機会を掴みうるかもしれません。

しかし、大半の学生が感じているのは、「やるべきことに挑戦し、前進がもたらす未来の自分との摩擦としてのスリル、失敗、成長の手応えの実感」というよりは、「やるべきことを延期し、全てを小出しにして消化不良に退屈し、次は、次はと言い続けるうちに将来の決断の時期が来た」という焦りや不安ではないでしょうか。

ただ「時間が多い」ことだけが可能性の前提なら、4年という長期間を過ごせば、誰もが自信家、野心家、冒険家になっていていいはずです。定年退職したおじさんなどは、みんな裕福で幸せになっていないといけません。

しかし、現実はそうではなく、時間は報いてくれないもの。夏に種まきをしていない田んぼで、秋に何の収穫が得られるのかと考えれば単純なことで、1、2年の頃に「種まき」をしていない学生には、自動的に「チャンスロス」という差別待遇が用意されるだけです。

しかるべき時を迎え、同じ時間を過ごしてきた一人は希望と自信に溢れ、伸び伸びと野心的に将来を展望しているのに、片やもう一人は不安と恐怖に夜を過ごし、「まだ学生のままでいたい」と願っている…。正確に言えば、そういう人はまだ「学生」ですらない、と言った方がよいでしょう。

「保有時間」は、ただ単に「種を蒔く前の土壌」であるに過ぎません。土の側には栄養もあるでしょう。そこにまかれた種に何らかの活力を送り込み、芽を出して天に向かって成長させるだけの余力は十分にあるはずです。

そこに「パチンコ」という種を蒔いても、その芽は立派に育っていき、朝鮮人参のように強力な吸収力で、大学生活で保有しうる全ての時間、お金、人脈、エネルギーを吸い上げていくはずです。

そこに「無為無策」という種をまけば、その芽は「退屈」として育ち、収穫時には「不安と恐怖」という実を付けて「たんと召し上がれ」という結果に
なるでしょう。

人生では常に、「何かをしよう」と思っていなくても何かがなされているわけですから、無意識であれそれらの行動と潜在心理が、4年という時を経て強固な信念と習慣として定着するのは自明の理です。

安心すべきは、「土壌を保有していること」ではありません。そんなのは単に、苦しかった受験の反動で学生になれた安心感の余勢を駆って惰性的に描く人生哲学に過ぎません。

ですから、「学生であるだけ」のことで「可能性」があるとは、自己欺瞞もいいところです。そういうごまかしを捨て、「やれば何でもできるが、やらなければ何事もできない」という単純な事実を直視してこそ、初めて種が蒔けます。

FUNには浪人経験のある学生さんもたくさんいて、予備校生時代は随分人生を考えた様子ですが、そのような学生さんはこういう哲学っぽい「考え方」の話が好きで、「可能性は準備と行動によってしか生まれない」という事実を自らの経験によってしっかりと確認しやすいようです。

僕は時々、笑顔で学生さんと接しつつも、感じるのです。

「君たちは、人生の問いすら借り物で済ませていないか」と。

お互いに「学生だったら、こうじゃない?」というイメージのみを毎日刷り合わせ、それで前期、後期、前期、後期…と時間を浪費し、本当の自分が心中深く抱いている問いを何ら発することないまま、マスコミや噂から借りた話題で自分を表現し、避けて考えないように
していた「卒業後」と、こちらから近付くのではなく、あちらから近付いてくるという形での対面を果たして、それで満足な行動ができるのか。

おそらく「このままじゃダメだ」と思っているだろう。では、それはいつまで「ダメ」なのか。いつから「ダメ」でなくなるための行動を開始するのか。その成功の見込みはあるのか。

「あんたに言われたくない」と強がるのは簡単だが、要するに「大学生」という都合のいい身分をその場その場の感情に合わせて着こなして、結局はいつも自分で自分の邪魔をしているだけではないのか。

自ら志望して大学生になったのに、そこで発生する行動を全て「やらされる」と詐称し、自由時間の勉強ではなく講義室の風景の一部になり続けた時間の集合体をもって「卒業」と称する、その何が「勉強」なのか、と。

僕は、少数の行動的な学生さんを除き、多くの学生さんは、素直になれば今の自分を到底認めがたいほど悔しいはずだと思います。

合格した頃は、溢れんばかりの希望と喜びに満ちていたはず。受験勉強中は、未知の大学生活を積極果敢に想像し、そこに考えられる限りの挑戦と成長のモデルを詰
め込み、生き生きと未来を設計していたはず。

もちろん、中には志望校や志望学部以外のところに入って、心中どこかに不全感のあるまま入学した人もいるでしょうが、自分の意思で選んだのですから、どこかに「この接点から将来を描くぞ」と思ったに違いあり
ません。

しかし、大学は「下には下がいる」という世界でもあります。

自分が手を抜いても、さらに信じられない怠慢でことを済ませて平然としている学生がうじゃうじゃいます。

そういう風景から心理的影響を受け、持った実感を表面的な問いで友達に確認してみると、「レポートって、これくらいでいいんだよね?」と逆に聞かれたりして、そこはただ、「不安と最低の努力のラインを確認しあう環境」でしかなかった、と気付く…。

こうなれば、没落はその「可能性」の分だけ恐ろしく速いものです。

「頑張って勉強す
るぞ!」は「授業には出るぞ!」に格下げされ、さらに「単位だけは取るぞ!」、「試験前だけは勉強するぞ!」、「卒業だけはするぞ!」と段々と動機が腐り果てていき、最後は「何をやったのか」という後悔と無念さを内なる「卒業証書」として巣立っていく
…。

「今の自分を率直に見て、どう評価するか」が、自分の「可能性」が開花した姿です。

僕は「学生の味方」などではなく「挑戦者の味方」でありたいので、まだ自分にはチャンスはある、と信じる学生さんは全力で応援していますが、傍から見ていて正直、「これじゃ悔しいだろうな」と思う学生さんもたくさんいます。

帝政ローマに仕えて歴史書を書き続けたプルターク(プルタルコス)は、既に2,000年以上も前に、多くの国家や人物の栄耀栄華と没落のドラマを知って、「肥沃な土壌も、耕さねば雑草しか生えない」という言葉を残しています。

「豊かな大学の時間も、挑戦せねば怠慢と後悔しか得られない」とでも言い換えたら、学生の皆さんにはよく実感が湧くのではないでしょうか。

僕はそんな学生さんのために、強力な肥料となって固まった土壌を耕し、生気を失いかけていた種を復活させるための栄養を届けて応援する「水」や「太陽」でありたいと思っています。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

学生と若手社会人のための就職・ビジネススクール
mai place(マイ・プレイス)
http://maiplacehp.web.fc2.com/

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

『内定への一言』はmai place講師の小島尚貴氏が、全国96大学1100人以上の就活生に向けて、04年春から07年まで配信し続けたメルマガです。毎号冒頭に今日の一言を紹介し、時事問題や学生事情も取り上げ、ユニークかつ本質的な視点で解説します。全国の学生から毎年支持されている小島氏の就職活動・入社対策の教材はこちら。
http://maiplacehp.web.fc2.com/tuhan/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【内定への一言/歴史・古典】51.「健康であるとは、自分自身の存在に気が付かないということだ」(ニーチェ)

51.「健康であるとは、自分自身の存在に気が付かないということだ」(ニーチェ)


最近改めて『マネー塾』で紹介した言葉の中で、特に学生さんから人気だったのが、「健康であるとは、自分自身の存在に気が付かないということだ」という一言でした。

「自分自身の存在に気が付かない=自分を忘れる」。

それは自然や他人といった対象と一体となり、その中に自分を埋没させて完全に利他的な心境となって、仕事であれば「お客様のために無我夢中」といった気持ちになる状態です。

人はいつも「自分、自分」と自分が得することばかり考えています。

特に学生さんのエントリーシートなどは、その大半が「私は~」で始まっており、とにかく自分をアピールしたいんだ、自分は特徴があるんだ、自分は注目に値する人間なんだ…という焦りとも自負とも付かない気持ちに満ちています。

しかし、このような態度はそれを見る側からすれば、やかましく醜悪なものです。自分のことに執着するあまり、全く会社や仕事、お客さんのことを考えていない態度は、「何をしに来たのだろうか」と思わずにはいられません。

大抵の人は焦ると「くれくれ族」になります。

「くれくれ族」というのは僕が勝手に作った言葉で、「認めてくれ」、「注目してくれ」、「気にしてくれ」、「評価してくれ」、「気付いてくれ」、「理解してくれ」、「優先してくれ」、「休ませてくれ」、「もっとくれ」…などと、いつも自分が受け取ることばかり考える大衆のことです。

つまり、自分ではなく他人や環境に依頼する態度を持つ人々のことです。

「自分は周囲より遅れているんじゃないか」、「周囲よりできないんじゃないか」、「周囲から認められていないんじゃないか」、「もっと評価されていいんじゃないか」、「もっと良い自分になっているべきじゃないか」…。

なるほど、こういうことばかり考えていると確かに疲れます。

だって、他人はいつもそういう期待をやすやすと裏切り、環境もまた、そのような願望には一切配慮してくれません。

営業マンでも、できない営業マンはいつも「自分は契約が取れるだろうか」、「自分の話を聞いてもらえるだろうか」、「自分は拒絶されないだろうか」、「自分は馬鹿にされていないだろうか」などと考えているものです。

心にあるのは、いつも「自分」。相手をどう利するか、どう相手の幸せを作るかなどということは、心の隅にもありません。これでは、契約など取れなくて当たり前です。

また、こういう態度で就活をすれば、理想の内定が取れなくて当たり前です。

例えば、もうすぐ冬です。

本メルマガは500人近くが「女性の読者」ですから、クリスマスを控え、恋人がいない寂しい男性があなたに言い寄ってきた、と仮定しましょう。

あなたはある日、知っている男性から告白されました。

あなたはその男の人を知ってはいましたが、別に恋愛の対象として見ていたわけではありませんでした。ましてや、自分に気があるなんてことも一切考えていませんでした。

別に悪い人と思っていたわけではないのですが、さりとて他の男友達と比べて何も特別視するような理由もなく、普通の知り合いといった感覚でしか見ていませんでした。

ですからあなたは、「ごめんなさい。そういう気持ちにはなりません」と断りました。

しかし相手は思いのほか熱心で、あなたが断ってもそのたびに思いを強め、「僕ほど君を想っている男はいない」、「君と付き合えたら今まで寂しかっただけ幸せになれる」、「君を幸せに出来るのは僕しかいない」などと強烈にアプローチしてきます。そ
して、情に弱いあなたは、数週間を経て「私でよかったら」と交際を承諾しました。こんなに熱心なら、きっと自分を大切にしてくれるだろう、と思ったからでした。

「こんな出会い方から始まる幸せもアリかな…」

ところが、その男性はあなたの態度を知るや狂喜し、別れた後こっそり友達に電話していたのです。

「良かったー、オレにも女ができて。とりあえずこれから冬やしさ、女くらいおらんとカッコつかんよね。マジ焦っとったけん、あいつなら押せば行けるやろうと思ったけど、ギリギリセーフでマジ助かった」。

…という内容の電話を。

もしあなたが、このような内容を知ったらどう思うでしょうか。あなたはあなただからではなく、「女」だから、しかも「落としやすい女」だから熱烈なアタックを受けたのでした。

きっと、常識的な判断ができる女性なら、「ひどい」と悲しむか、あるいは落ち込むかして、「やっぱり付き合わない」と言うでしょう。

それは、あなたのことを無視されたからです。相手が「自分」のことしか考えていなかったからです。仮にも相手の幸せがあなたの幸せにつながればと思って受け入れたのに、その思いは裏切られたわけでした。

毎年こういう話をすると、だいたい就活コースやFUNゼミは女子大生が7~8割なので、「そうだそうだ」、「そういう男はお断り」、「あたしは寂しすぎる女だからちょっとは羨ましいけど許せん」といった声が聞かれます。

そうでしょう。

みんな、こういう興味がある話題から自分のことを考えれば、相手から特別視されずに軽視されることがいかに悲しく屈辱的か、よく分かるものです。

僕がサークルで恋愛の話をすることは3年間で一度もありませんが、こういう例え話であれ、女子大生のロマンスに対する想像力は僕の原価計算速度並みにすごいので、想像しているだけで「ホワーン」となる学生さんもいます。

嫌でしょう。悔しいでしょう。

しかし、大半の3年生は、「早く内定したい」とだけ考えて自分を粗末に扱い、企業に対してこの「憎むべき男」と全く同じ態度で臨んでいるのではないのか?

と聞いた瞬間、多くの女子大生の顔が凍りつきます。

「相手のことなんてどうでもいい」、「とりあえず内定がもらえればいい」、「早く受かって遊びたい」、「早く春が来てほしい」…。

全ての動機は会社や仕事とは一切関係ない「自分の関心事」にばかり設定され、このような心構えでいる限り内定はもらえず、もらえても幸せな仕事は不可能です。

「自分」のことばかり考えていると、就活のようなイベントですら、うまく事が運ばなくなるものなんですね。

自分ばかり考えるから、期待通りの反応が得られず裏切られた失望感や徒労感に苛まれ、自分の興味しか優先しないから企業から拒絶され、自分のやりたいことしか考えないから選択肢が狭まる。

これは「健康」とは程遠い有り様で、「自分の存在を気にしている人」はどこに行こうが、何をしようが「不健康」極まりない言動を繰り返しては、自らの「ストレス」を運用し続けているものです。

例えば、あなたが大好きな友達に、その人が好きそうな映画を紹介したとしましょう。あなたは友達の性格や好みを知り抜いているからこそ、その友達がその映画を見ればどれだけ感動するか、どれだけ納得するか、ありありとイメージできます。

だから、「昔、○○に興味があるって言ってたよね?」、「あなたは○○だから絶対に感動するよ」、「○○の夢にもきっといいヒントが見つかるよ」、「○○な人になりたいなら役に立つ映画だよ」といった感じで紹介するでしょう。

そういう作業に没頭している時は、あなたの心の中には「自分」という存在は完全に忘却されていることでしょう。

無心に友や相手を思い、その成功や幸せを願って自分の知識や能力をフルに発揮する、この姿勢こそ「仕事の本質」である「問題解決を通じた社会貢献」の要素を含んでおり、自他共に幸せになれるコミュニケーションの基本だといえます。

相手をいかに思い、いかにその幸せに貢献するか。それが「自分」です。それこそ、「自分自身の存在に気が付かない」という点で完全に相手と一体同化した「健康」な状態だと言えます。

「自分をどう売り込むか」、「自分をどう捉えるか」などは、自分に見えて自分ではありません。それは他者との関わりが一切存在しないからです。

学生さんは「自己分析」という言葉はよく使いますが、自分の中に自分を見つける作業が分析だと思っている点で、その手の自己分析は最初から間違っているのではないでしょうか。

仕事とは、何も一人でやることではなく、社内では誰かと協力・調和し、社外では常に誰かと出会って新たな関係を構築・発展させていく営みです。

「人のやりたいこと」を助けるからこそ報酬が得られる、という仕事の基本を忘れてはなりません。学生さんがこだわる「自分のやりたいこと」は、むしろ「お金を払う行為」です。

この世で自分の幸せよりも嬉しいのは人を幸せにすることです。他人の幸せに与えた貢献と影響を見る時、誰しも最も幸せな気持ちになれます。

「楽しまなきゃ損」とよく聞きますが、自分が楽しむより、人を楽しませるほうがもっともっと楽しいではないですか。人が楽しむことが自分の楽しみです。その意味で、「楽しませなきゃ損」と考えた方がうまくいきます。

「自分が幸せじゃないと、他人を幸せにすることなんてできない」なんて、なんと安っぽく傲慢な態度でしょうか。自分が不幸であれ、人を幸せにすることで自分の幸せの欠落が埋められるのではないでしょうか。

うまく行きたかったら、愚かな大衆の無責任な流行語など、さっさと頭脳から排除することですね。そんなのは、自分の意見に思えて実は全くそうではないはずです。

「みんながやっていること」など絶対に参考にしないことです。そんなのは自分の願望に従ってただ抽象的に「感じているだけ」で、考えて参考にしているわけではないでしょう。

うまくいきたければ、「楽しそうに、また熱心に働いていて仕事が大好きな人」だけを参考にすればよいことです。

自己分析とは、もしそういう作業があるなら、自分だけの言葉と出会う作業にほかなりません。借り物の言葉を排し、自分の頭脳で悠々自適の心境を作り出すことです。

ニーチェは「健康=自己忘却」という心境を19世紀半ばに哲学化していますが、わが国では既にニーチェより600年も前に、さらに明確で力強い体系で「悟り」と「幸せ」の一体化を説いた哲人がいます。

言うまでもなく鎌倉時代の禅僧・道元で、超優良企業の創業者や世界中の日本愛好家たちが「日本の思想で最も普遍的かつ本質的な哲学」と呼ぶだけのスケールと力強さがあります。

その道元の「自己を運びて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するは悟りなり」という言葉は、夏に本メルマガでご紹介しました。

「自分の基準で世の中を見ると迷いが生まれ、自然の営みや会計の法則から世の中を見ると悟りが生まれる」とでも解釈すれば、就職活動において取るべき態度の参考になるのではないでしょうか。

つまり、「やりたいこと」ではなく「してあげたいこと」という視点で、常に相手の幸せを介在させて思考・想像し、客観と主観の一体化を図っていくということです

僕は最近、「道元入門」(秋月龍民/講談社現代新書)や「正法眼蔵を読む」(秋月龍民./PHP文庫)などを読んでいますが、なんと深く素朴な思想であることか、ページを開くたびに驚くばかりです。

もう700年以上も前の本なのに、ここ数年ずっと読んできた経営書や経済書、歴史書、古典、戦記で感じてきた様々な疑問の本質的な解決策が説かれているようで、改めて先人の洞察力に恐れ入るばかりです。

今日も心身ともに健康な一日を送りましょう。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

学生と若手社会人のための就職・ビジネススクール
mai place(マイ・プレイス)
http://maiplacehp.web.fc2.com/

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

『内定への一言』はmai place講師の小島尚貴氏が、全国96大学1100人以上の就活生に向けて、04年春から07年まで配信し続けたメルマガです。毎号冒頭に今日の一言を紹介し、時事問題や学生事情も取り上げ、ユニークかつ本質的な視点で解説します。全国の学生から毎年支持されている小島氏の就職活動・入社対策の教材はこちら。
http://maiplacehp.web.fc2.com/tuhan/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【内定への一言/歴史・古典】50.「見捨てられていることと、孤独とは別のことだ」(ニーチェ)

50.「見捨てられていることと、孤独とは別のことだ」(ニーチェ)


FUNに集まる学生さんには、高校時代に運動部のキャプテンだった人や、あるいは生徒会長だった人、他には何かのチームでリーダーを務めた経験がある学生さんが多い反面、一人で孤独に耐えてきた物静かな学生さんもおられます。

およそ傍から見れば、一体何の集まりであるか分からないくらい多種多様な学生さんが集まるFUNに共通しているのは、「孤独との付き合い方を変えたい」と願う学生さんが多い、ということではないでしょうか。

友達といる時は明るい、だけど家に帰ると言い知れぬ不安に襲われる学生さん。

人を助けている時は勇気に満ちているけど、自分の課題と向き合う時はその勇気を振り絞れない学生さん。

なかなか人に溶け込めず、新たな出会いの取っ掛かりを掴むのがやや苦手な学生さん。

あるいは、人をつなげ、盛り上げ、勇気付けることを率先して引き受けて場を和ませる学生さん。

そんな学生さんが、一枚のビラや友達の紹介、あるいはHPへのちょっとしたアクセス、雑誌forFUNでの記事をきっかけに、素敵な仲間に変わっていく姿を見るのは、顧問としての立場で味わえる最高の感動です。

そういう姿を毎週観察していると、どこかに昔の僕と似通ったところがあって、「年は10歳くらい離れているけど、みんなとは一生の友達だろうなあ」という感慨に浸ることがあります。

僕の本業は「さみしがり屋」ですから、こうして若い世代と深く本質的な話題で触れ合える場があるのはとても有り難いことです。ただ漫然と時間を共有するよりも、深いところで認め合える実感こそ、孤独の意味を高めてくれるからです。

本メルマガでも時々引用してきたニーチェは、「見捨てられていることと、孤独とは別のことだ」という言葉を残しています(『ニーチェとの対話』西尾幹二/講談社現代新書/1978)。

4年生の就活での挫折、疲れ、悲しみを深いところで希望に変えてきた人気図書『いきいきと生きよ』(講談社現代新書)の著者・手塚富雄さんの弟子である西尾さんは、「孤独」について以下のような解説を行っています。

~『通例の人間、とくに日本人の場合、自分だけが一人ぽっちに置き去りにされた寂しさ、世間は明るい光に包まれているのに自分だけが暗闇に見捨てられている頼りなさを、孤独と呼ぶのであろう。

しかしニーチェの孤独はそうではない。孤独は彼が自分で欲し、自ら招いた結果である。そこには能動性があり、高い次元での共同体への欲求がある。

人間と人間とが深いところで結合し、個体であることを放棄し、融合帰一している状態への強烈な憧れがある。

孤独への意志と、共同体への希求とは、明らかに矛盾した、逆方向への志向のように見えるが、ニーチェの内部ではそれはなんら矛盾ではなく、彼を前方へ駆り立てていくもっとも基本的な生への衝動の一つであった(P40)』~

様々な名文、優れた洞察に溢れるこの本の中でも、僕は特にこの部分が好きです。

それは昔は、過去に自分が行ってきた、いくつかの「排他的」と断罪された判断や行いの数々を、「それでいいんだ」と認められているような安心感に浸れたからですが、今では「孤独に徹する強さを持つ者こそが本当の出会いを持てる」というさらに深い同意に達したからです。

FUNも最初は、大濠公園前ミスタードーナツで不定期に発生する、単なるビジネスの語り合いに過ぎませんでした。

それが4年で数百人の学生を巻き込み、今では100人近くの部員、OBを抱えるサークルになりました。

「サークルで就活や勉強に取り組む」という表面的行為だけを抽出すれば、「ふん、自分は一人でやれるからそんなのには反対だね」と思う若者もいるでしょう。

しかし僕がサークル発足当初から、「FUNは居心地に良さに安心して、自らの人生に立ちはだかる課題を都合よく忘れる場ではない。みんなで学ぶのは、一人の時に強い人間になるためだ」と言ってきたのは、入部して2年以上たつ学生さんであれば、誰しもが聞いたことでしょう。

そして、「今日は元気をもらいに来ました、みなさんに元気を分けてもらうために来ました、などと言うな。みんながもらったら元気がなくなってしまう。集まるのは純粋に与えるためだ。自分のことなんて考えなくていいから、友達を応援し、後輩を励まし、先輩を称えるために集まれ」と言っているのも、よくご存知でしょう。

孤独を正視できず、集まりに嫉妬して批判を行うことでかろうじて自己の尊厳を保つような皮肉屋には、孤独の本質は決して見えてきません。

そのような孤独は、本人は三流ポップスでも聴いてその歌詞に自己同化を行うことでロマンに浸っていても、実は健全な社会性が欠如した結果であるに過ぎず、とても積極果敢に受け入れ、楽しんでいる孤独とは呼べません。

何も集まって同じ部屋にいるから孤独が癒されるのではありません。授業が終わって友達と楽しくおしゃべりしていても、その中で登場する話題が人生の核心や問いから外れたものであれば、家に帰れば我に返り、余計寂しさが募るだけでしょう。

それは、自分で自分を見捨てているという点で、とても大人の孤独とは呼べないものです。感傷的な恋愛ならそのような心象風景も似合うでしょうが、人生の問いに裏付けられない孤独は単なる「孤立」に過ぎません。

孤独であるかないかは、「人と一緒にいる」という唯物的な見方によって判断するのではなく、「精神的に共鳴しうる友がいるか」という内面によって判断するべきことでしょう。

そして、たとえ一人でいる時間が長かろうが、深いところで分かり合い、認め合い、高めあえる友や先人を持つことが、学生時代を豊かな時間にしてくれるのではないでしょうか。

人生に対する真剣な問いを捨象して、「ただ学生時代は自由だから」と問いを無視して過ごすなら、自らの学生証の「○○大学」の「大学」の部分を修正液で消して、新たに「老人ホーム」と書き換えた方がよいでしょう。

自分で自分を見捨てた人間がいかに堕落するか、孤独をつよがりで認めない人間がいかに現実を曲解するか。

挫折を強弁で糊塗してごまかす人間の人生が「人生ごっこ」でしかないこと、そしてそれが戦後いかに日本社会を歪め、数々の悲劇の原因となってきたことか。

昨日の近現代史7では、現代人、とりわけ若者が抱える空虚感や無力感の最も本質的な部分と関連する現代史の事実を扱ったからこそ、自らの孤独の本質を理解した学生さんたちは勇気と優しさに満ちた表情になったのではないか…。

そう考え、2日の徹夜で行った資料検討・文章校正の疲れが達成感に変わるのを実感しつつ、昨日は眠りにつきました。

就活でも孤独は生じます。孤独は素直に観察すれば、仕事の魅力や人生の深さをよりよく反映させてくれる触媒になるでしょう。

怖いのは負けることではなく逃げることであり、孤独ではなくごまかすことです。

今そこに、最高の自分になれるきっかけは全てそろっているのですから、自分が選んだ人生で、その中で最も自由に成長を遂げられる大学生活の中で、ぜひ孤独を友とし、立派な成長を遂げていきましょう。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

学生と若手社会人のための就職・ビジネススクール
mai place(マイ・プレイス)
http://maiplacehp.web.fc2.com/

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

『内定への一言』はmai place講師の小島尚貴氏が、全国96大学1100人以上の就活生に向けて、04年春から07年まで配信し続けたメルマガです。毎号冒頭に今日の一言を紹介し、時事問題や学生事情も取り上げ、ユニークかつ本質的な視点で解説します。全国の学生から毎年支持されている小島氏の就職活動・入社対策の教材はこちら。
http://maiplacehp.web.fc2.com/tuhan/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«【内定への一言/歴史・古典】49.「遺産を積んでからそれを与えようとするより、今一瞬を優しい気持ちで分け与えなさい」(ゲーテ)